「思想としての朝鮮籍」

 最近は韓国・文在寅(ムン・ジェイン)大統領の発するメッセージに注目している。3月1日はソウルの「西大門刑務所」跡で行われた「3・1運動」を記念する式典で、慰安婦問題について「加害者である日本政府が『終わった』と述べてはならない」と述べた。4月3日には済州島に赴き、70年前に起きた「4.3虐殺事件」の追悼式で「国家暴力によるすべての苦痛」について遺族らに謝罪した。前者は日本の歴史修正主義とどう向き合うかであり、後者は3万に及ぶ済州島民の虐殺を「共産主義から国を守った正当な公権力行使」とする国内反共保守派とのせめぎ合いである。加えて、米中二つの大国に翻弄されるという複雑なバランスをどうとっていくのか。難しい難問に取り組まざるを得ない隣国リーダーの心中を遠くから思いやっている。

 「思想としての朝鮮籍」(岩波書店)はそんな中で読もう読もうと思いつつ、手を出しかねていた。というのも著者・中村一成は在日2世だが、その視点は容赦のない鋭さでこちらは逃げ切れない。しかし文在寅の苦衷を思えば、老いてしまったという安逸に逃げ込んでいるわけにはいかないだろうとなった。

 朝鮮籍を今なお譲れない一線とする在日6人への熱いインタビュールポで構成されている。朝鮮籍とは、植民地にすることで日本国籍とされた朝鮮人が敗戦後も引き続き日本に居住する際に、外国人登録証明書の国籍欄に取り敢えず便宜上の記号として朝鮮と記された地域の総称である。外国人として登録しようにも書く「国」がないからというわけだ。敗戦時およそ210万人いたという朝鮮人は日本の法令に服させる一方で、政治参加の権利はなかった。サンフランシスコ条約、日韓基本条約で韓国を独立国家とみなした後は、自ら申請すれば韓国籍となる。したがって朝鮮籍は北朝鮮籍と同一視されるものではない。しかしこうした誤認を拡散し、差別感情を煽り立てているのが現状である。なぜ、朝鮮籍にこだわるのか。「統一国家を求める」「非転向の証」「朝鮮人の証明」としているが深く、激しく国家とは何かを見通している。

 インタビューの最初は高史明である。一人息子・岡真史の自死を乗り越えて親鸞にたどり着くのだが、下関の極貧朝鮮人集落で幼くして母親を失った在日2世はすさまじい。生活の荒れは極限に迫り、両太腿に花札の入れ墨をする狂犬と化していた。朝鮮語ができない朝鮮人として、抑圧者の言葉に絡め取られ、思考や情感のすべてが日本語を経るしか術がない苦悩は、引き裂かれた「割れた人」と自己規定している。共産党に入党して、四全協、五全協時代の武装闘争の前線に立つも「割れた人」は党方針に素直に従えず、査問を受ける。すぐに党を離れなかったのは、自分のせいで朝鮮人活動家の評価を落とすわけにはいかないと考えたのだが、組織の論理で動く政治ではなく、野間宏の知遇を得たこともあり文学に引き裂かれた自分を取り戻していく。

 次々と6人が登場するが、そのエネルギーはすさまじい。作家・金石範の4.3済州島虐殺をテーマにした小説「火山島」は全7巻、原稿用紙1万1千枚に及ぶ。在日朝鮮人被爆者の救済を訴える李実根はヒロシマの欺瞞を鋭く突く。なぜ、原爆が広島に落とされたのか。戦前の軍都・広島はアジア武力侵略の橋頭保であったからで、被爆地ヒロシマは加害のやましさを除去するフイルターとなっており、「私たち日本人は唯一の戦争被爆国民」といって憚らない安倍首相には在日朝鮮人被爆者が1300人以上存在していることが全く念頭にない。加害が認識できない、きれいな被害者を装っているだけだ。この李実根の刑務所暮らしは長いが、その出所祝いを「仁義なき戦い」のモデルになった親分がそのきっぷの良さと胆力にほれ込んでやってくれたという。

 アジアの平和はそう簡単ではない。朝鮮籍は今後何をなすべきか示唆している。

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