香月泰男展

赤ん坊の手を引いた、小さな命を慈しむ若い母親。しかし、おむつが入っていそうに見えるバッグの中に爆弾が仕掛けられている。1979年末ソ連はアフガニスタンに侵攻した。ソ連戦車に乗る若い兵士は路上前方に親子の姿を見て、降りていって抱いて道の脇に移そうとする。抱き上げた瞬間、猛烈な爆撃が起きて、若い親子も兵士も姿を消す。戦車の胴体に3人の肉片がへばりつく。こうした平常の感覚では考えられない、智恵の限りを尽くしたテロが頻発し、異様な緊張を強いられたソ連兵士は、残忍な報復をし、それがまた次のテロを生む。この連鎖の果てにソ連軍は撤退した。

ベラルーシ(旧ソ連の白ロシア共和国。91年に独立)の女流作家スベトラーナ・アレクシエービッチのドキュメント「アフガン帰還兵の証言」。95年に日本経済新聞社から刊行されている。ぜひ、ブッシュに読ませたかったというのは作家の澤地久枝。どんなに強大な軍事力をもってしても、屈服させることの出来ない人々がおり、民意があることを考えるべきだという。「私はおとなしくない市民だが、テロリストではない。でも暴力的支配が強権をもって行われ、テロ以外に道なしと考えたら、次の瞬間にテロリストになります」。こんな市民が多くいれば、テロリストと市民を区別することが出来なくなる。そして、一般市民を巻き込んだ殺傷も止むなしということに。つまり赤ん坊さえも。

兵士のほとんどが精神に異常をきたす。アフガンから帰還した兵士、ベトナムから帰還した兵士は麻薬に逃げるか、また殺人も厭わない凶悪な犯罪に平気で身を投じる。現在のイラクでも、派遣されたアメリカ兵の数十人が自殺をし、数百人が精神異常を訴えて帰国させられている。アフガンもベトナムも忘れたかのように、愚かしいことが繰り返されている。

アレクシエービッチの著書を図書館から借り出してきた。「チェルノブイリの祈り」(岩波書店)と「ボタン穴から見た戦争」(群像社)。いずれも現場に立ち会った人の証言をこれでもかという執念で集めている。前書は原子力発電所が火事だといって、シャツ1枚で飛び出していった消防士の妻からの証言。夫に抱きつくと夫の皮膚がぺロっと剥れてくる。おなかの中にいた赤ちゃんが大量の被爆でわずか4時間の命だった。後書は41年ドイツがソ連領に攻め込み、惨劇の限りを尽くす。それを子どもたちがどう見たかの証言を集めたもの。子ども達の目の前で、両親の頭が吹っ飛んでしまう凄惨な殺戮が行われた。子どもの記憶にそれが残り、その記憶を引きずりながら生きてゆかねばならない。結果として勝てなくても、これだけは抵抗したということを、次なる世代のために遺しておきたい。ひょっとするとこれらの証言を眼にして、立ち上がってくれるかもしれないから。そんな思いであろう。

先週末、東京駅にある東京ステーションギャラリーの「香月泰男展」をのぞいた。ここにも人間の哀しみがあふれている。香月が描いたのはシベリア。戦後シベリアに抑留され、そのラーゲリの様子を、哀しみをあふれさせて。「涅槃」は極寒の中で、飢えて凍え死んでいった戦友の棺をのぞき込む仲間にもある死相を描いている。土が固く凍りつき、死体を埋めようにも、思うように土が掘り返されなくて足が地表に出ている絵も。そして早く帰国させてくれるかもしれないと、心にもなく赤旗を押し立て、ロシア革命を賞賛するインターナショナルを歌いながら隊列を組む絵も。屈辱と、生きたい、帰りたい思いが交錯。胸を突き刺してくる。わが父と同じ明治44年の生まれだが、63歳で亡くなっている。故郷山口県三隅町をこよなく愛し、そこに美術館もある。帰国後穏やかな生活を送っている。

香月の作品に戦争を推進した天皇制を批判しているかに取れる作品がある。悔しさがあふれているように見える。個人の尊厳を踏みにじっていく組織とは、国家とは何なのか、絵画から問い詰めている。

そして、うれしかったこと。その香月展の前で、一人の青年が人を待っている。手にしている本が何と山本義隆の「磁力と重力の発見」ではないか。未来は捨てたものではない。

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