林克明のチェチェン

1995年1月、厳寒のモスクワを平和行進がのろのろと進んでいた。ロシア軍が独立宣言をしたチェチェンを侵攻してから3週間が経っている。戦争に抗議する日本人仏教僧侶やチェチェン人、息子を兵隊にとられているロシアの母親たちだ。手を取り合ってモスクワから戦場になっているチェチェンの首都グローズヌイまで歩こうというのだ。
 この行進を見ていた林克明(まさあき)は、この行進についていこうと思った。こんな行進で戦争が終わるとも思えないが、この機会を逃せばとても後悔するように思えたからだ。グローズヌイにそもそもたどり着けるか、不安がよぎったが吹っ切った。隣の女房も一緒に行くという。それが「運命の開け時」だった。それから、林は戦争が続くチェチェンに15回も行き、取材を続けることになる。
 チェチェンの悲劇は400年前にさかのぼる。カフカス地域は、16世紀のイワン雷帝による侵略以降、帝政ロシア、ソビエトロシアの時代を通して植民地にされ、同化政策を強いられてきた。このカフカスの山岳民のなかで、チェチェン人だけが強い独立志向を持つ。それが権力者の癇に触る。44年、スターリンは独ソ戦争のさなかにチェチェン人、イングーシ人50万人をほとんど一夜にしてカザフスタンやシベリアへ移住させた。56年に「名誉回復」され、帰還は許されたものの、人数は半減していたといわれる。それでも止まぬ、いやそれだからこその独立への思いが、94年エリツインが第1次チェチェン戦争をしかけ、そして99年にプーチンが第2次チェチェン戦争を引き起こしている。それは民族を根絶やしにするジェノサイドだ。二人はこの戦争が権力維持に必要だった。テロと戦争という憎しみの連鎖である。それが400年以上も続いているのである。 それにしても北オセチア共和国の学校占拠の惨劇には絶句するしかない。
 林は60年長野県生まれ。大学卒業後、OA機器のセールスマンを経て業界紙の記者になり、3年経った時にあるジャーナリストに声を掛けられ、その事務所に入り、週刊誌の契約記者となった。いつかノンフィクションライターになりたいとの思いが萌していた。そんな頃、たまたまソ連映画を見て感動したのがきっかけで夜間のロシア語講座に通いはじめ、妻となる女性と出会う。二人の最初の目標は、節約生活を送って資金を貯め1年間ロシアに住むことだったのである。そして夢をかなえて、あの行進に出会う。
 彼は余り勉強が得意ではない。その分一歩踏み込んで住民の生活に入り、身体で取材するしかないと思っている。まして片言のロシア語である。彼の現場ジャーナリスト感覚からすれば、戦争とはウンチとおしっこなのだ。ミサイル発射、砂塵をあげて進む戦車やロケット攻撃ではない。水洗トイレの水は止まる、難民キャンプの掘っ立て小屋のそばに穴をくりぬいてトイレにする、赤ん坊のオムツはどうする、生理用品がない。それが戦争の現場だという。プレスカード(記者証)もなく、いやそんな特権を普通の人々は持っていない。普通の人と同じ条件で取材をするスタイルを貫く。「カフカスの小さな国」「チェチェンで何が起こっているのか」「チェチェン 屈せざる人々」がその労作である。彼のチェチェン・ルポがなかったら、われわれはプーチンのいい分を信じていたかもしれない。
 林は怒る。イラクで活動した高遠菜穂子さんらに向けられた非難は、自分への攻撃でもあった、と。本屋で見つけた「文筆生活の現場~ライフワークとしてのノンフィクション~」(中公新書780円)。その中に、自由に、独りを選んだフリーランスジャーナリスト・林克明が自らを伝えている。
 指揮者ゲルギェフは北オセチアが故郷。この悲劇を団結して乗り越えようと呼びかけている。あの平和行進は数百人がロシア軍に途中拘束されたが、パンに缶詰のサバをのっける食事を続け、小人数ながらグローズヌイに到達した。

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