「科学と宗教と死」

 「頑張ろう」ではなく、「祈りましょう」。東日本大震災の時、日本では東北頑張れとなったが、海外の多くでは「日本のために祈ろう」となった。そんな違和感の原点は宗教にある。

 今にして思うが、祈る言葉を持っていない。南無阿弥陀仏でも、アーメンでもいいが、神をイメージできないのだから、黙して手を合わせるしかない。新湊にある浄土宗の古刹・曼陀羅寺に墓があり、お盆に一度だけ詣でるが、お花線香は後の始末が面倒と手ぶらだ。また、受け継いだ仏壇もあるがここ数年開けた記憶がない。さりとて積極的に神は存在しないという無神論者でもなく、主体的な無宗教者にも入らない。周りを見回しても、みんな同類に見える。戦後教育の中で宗教が欠落していたことが大きい。そのためか77年生きて、宗教的なものに惹かれそうになったことはない。このままでは、のっぺりした死が待ち受けているように思える。眼前に立っている死とは何なのか。できれば、あと数年で悟りに近いものを会得してみたい。そう思うようになった。

 書棚にあった加賀乙彦著「科学と宗教と死」(集英社新書)を取り出してきた。加賀は29年生まれの93歳。精神科医にして作家であり、58歳の時に遠藤周作に唆されてカトリックの洗礼を受けている。精神科医としてのテーマは死刑囚の心理研究。そのために東京拘置所の医官となり、約2000人の囚人と日々接した。死刑囚と無期刑囚の違いは、濃密な生と希薄な生という差ではっきりする。明日殺されるかもしれないという切迫感が駆り立てる死刑囚、一方無期刑囚の一番の敵は退屈で、毎日毎日判で押したような日々が続き、それがいつまで続くかわからない。無感動で、長い刑務所暮らしに適応していかざるを得ない。

 さて、後期高齢者諸兄諸姉よ、あなたは死刑囚か、それとも無期刑囚か。ガン末期で余命宣告を受ければ死刑囚だが、ととぼけた反応する人間は論外である。無期刑囚と称して、退屈な日々を漫然と送るのも論外。神の啓示は求めるものに与えられる。加賀は洗礼を受けた時に、神父と4日間真剣な質疑を交わした。もう神に対する疑いが出てこない瞬間が訪れ、澄み切った明るい光に満たされ、沸き起こる喜びを感じることができた。

 もう頑張る時ではなく、祈る時が来ている。祈る言葉を獲得するために、仏教でもキリストでもイスラムでも、また邪宗といわれるものでもいいから、その門を叩くことが肝要。

 わが企みだが、坊主バーを開きたい。80年に千石イエスが話題となったが、後期高齢の善男善女が集うバーで、車いす対応のトイレも完備している。一緒に読経し、感涙を流し、法悦の境地に入る。統一教会でスッカラカンになった御仁も大歓迎である。

 ところで、黄泉の国で遊ぶアベクンは何を思っているだろうか。俺の演技を真に受けて、売国奴を愛国者に仕立てあげてくれたのはありがたい。権力を握り続けるということは悪魔とも手を握るということ。山上君には感謝している。虚飾の日々にいっぱいいっぱいで苦しかった。まかり間違えたら、獄門打ち首の俺が、国葬となるんだから、甘い国民のみなさん、ありがとう。

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