「銀のスッカラ」

 金沢ふるさと偉人館で「日本化学工業の基礎を築いた男 野口遵」なる企画展が数年前に催された。野口遵は1873年金沢生まれで「のぐち・したがう」と呼ぶ。この男は別に「朝鮮半島の事業王」と称され、チッソに始まり、旭化成、積水化学、信越化学を擁する日窒コンツェルンを一代で築きあげた。

 きっかけは1906年に鹿児島県での水力発電所建設で、その電力の活用策として、ドイツが持っていた石灰石からカーバイドを製造する特許を買って実用化し、水俣市で日本窒素肥料を設立。当時の最先端技術であった石灰窒素や硫安の製造で、化学会社の基礎を築いた。野心あふれる野口は植民地朝鮮に着目し、鴨緑江に巨大発電所を建設し、それを背景に世界最大の化学コンビナートを造り上げる。野口は山の上から「あそこから、ここまで買収せえ」と号令をかけ、朝鮮総督府の威光と警察力を背景に地主たちの反対を押しつぶし、二束三文で広大な土地を手にしたという逸話が残る。

 この逸話を別の視点から見たのが、標題の短編映画。スッカラは朝鮮民族が使う匙のこと。監督の伊藤孝司は70歳のフォトジャーナリスト。朝鮮民主主義人民共和国に住む植民地被害をテーマに、取材依頼を執拗に繰り返し、身銭を切っているだけに迫力が違う。日本軍性奴隷被害者を取り上げた「アリラン峠を越えて」に続き、朝鮮内の軍需工場へ強制連行された当時14歳の被害者から回想を引き出している。平壌の高層アパートで暮らす尹昌宇(ユン・チャンウ)。北当局の意向もあり、割り引いて見なくてはならないが拘っていない。

 1942年、ひとりの警察官と鳥打帽にゲートル姿の3人の男が家にやってきて「この時局において若い奴は働くべきだ!」と問答無用と少年は引っ張り出されて、そのまま拉致された。警察署には130人が集められており、日本行きと、朝鮮に残る組に否応なく分けられ、尹昌宇は興南(フンナン)の巨大な肥料工場行きとなった。あの野口の日本窒素肥料である。職場は劣悪なんてものではなく、亜硫酸ガス、アンモニアの臭気が立ち籠め、予想外の事故が頻繁に起きていた。尹昌宇も43年9月15日、硝酸を引っ被って大やけどを負って、5日間死線をさまよい、右眼を失い、全身にケロイドが残る重症。本人による不注意だと、病院の廊下に放置された。「朝鮮人はぼろくそ使え、人間として見るな」が管理する日本人の常識だった。

 そんな苛烈な体験を持つ尹昌宇が伊藤に最初から心を開くわけがない。何度も訪問し、説明を繰り返し、ようやく信頼感が芽生えた。そして、戦後70余年を経てまだ、あの工場は稼働していた。監督は必死に工場への取材を当局に依頼し、撮影に漕ぎつけた。絞り出す回想は悔しさに表情がゆがむ。

 最後に思いがけない証言が出た。この工場で原発の開発も行われていた。米国国立公文書館に45年8月12日核実験に成功していたと記されている。指揮したのは荒勝文策で京大原子核物理を出て、海軍からの依頼であった。また、広島の投下爆弾を原爆と特定したのも荒勝である。

 伊藤監督の思いは、北に暮らす2400万人のことを忘れるな、という警告。日本人拉致が明らかになってから、加害国から被害国になったようなすり替え論理がまかり通っている。この薄っぺらな論理を弄んだアベの罪は重い。

 チッソのHPを見ると「よろこびを化学するJNC」とある。厚顔無恥を通り越し、愚かとしか思えない。公害に加え、戦犯の重大責任がこれから問われることを忘れてはならない。

 

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