胃カメラ

人間とは、いや人間である自分とは何ものなのか。そんな哲学的な疑問を思い起こすことになった。初めて胃カメラを呑んだのである。バリウムを飲んでのレントゲン検査で、怪しきものが映ったので要精検となり、これまでであればやり過ごすのだが、何を思ったのか友人の古屋医師に頼むことにした。多少身構えていたが、それほどの抵抗もなくあっという間に終わった。4月4日彼の説明を聞きながら、ディスプレイに映し出された咽頭、食道、胃、十二指腸の画像を眺めた。そして冒頭の深い疑問にぶち当たったのである。
 自分という命を支える五臓六腑がこちらの意志と関係なくうごめき続けている。しかも受胎からだから67年も休まずにである。不思議といえば不思議な思いだが、確かに70億の人類のひとりに過ぎないのだぞ、という動かしがたいものを突きつけている。ちっぽけなひとり、いやたった一個の生命体だということ。一方で、38億年近くの時間を要して、単細胞から細胞分裂を繰り返し、ようやくたどり着いた命であり、その間に刷り込まれた遺伝子が、必死に環境に適応させてきた成果がこの自分ということも。
 ゴーギャン曰く「われわれはどこからきたのか。われわれはなにものなのか。われわれはどこへゆくのか」が胸に響いてくる。果たして果たして、と思いつつ、早寝早起き朝ごはんという日常に支配され、哲学的な命題とは程遠い日々でもある。
 福岡伸一の「動的平衡」はこうした疑問に応えてくれる。全ての細胞は日々新しいものに置き換えられていく。しかも二度と同じものをつくっていない。同じようなことを繰り返しているように見えるけれど、実は昨日の自分と今日の自分は全然違う。少しずつゆらいでいるわけだが、何とかそれを揺り戻して同じようになっていく。顔の表情や、ちょっとした癖も受け継がれ、自分が自分自身から、そう離れずに維持されていっている。もっと複雑な視力、嗅覚、味覚なども余程のことがない限り変わることはない。それを動的平衡という概念でまとめている。
 それでは、人間誰しも避けられない死とは何か。動的平衡論の中でこう説明している。生命の根源となっているたんぱく質も、どんな場合でもありとあらゆる方法で壊すようにできている。しかもそれは古びたから壊す、酸化されたから壊す、変性したから壊すのではなくて、できたてほやほやでも、情け容赦なく壊して、新しいものと置き換えていく。どうしてそんなことをするかというと、そうすることによって溜まりそうになるエントロピーをどんどん捨てているからに他ならない。エントロピーに捕まえられないように、常に一歩先を自ら壊しながらつくっていかざるを得ない。そんな必死の自転車操業でも、エントロピー増大の法則には勝てなくて、最後は追いつかれてしまう。それが死である。
 しかし、死は最期ではない。地球全体の原子の総量は、ほとんど変わりはない。総量には変わりがなくて、それがぐるぐるとまわっている。すべての生物が、それぞれの持ち場でパスを受け、そのパスを通して地球はまわっているのだ。動的平衡は何者かに引き継がれている。それは子孫を残すということだけではなくて、生きながらにして、自分に入ってきた分子が通り抜けて、あるときはミミズになり、海のもくずになり、あるときは鍾乳洞の一部になる。そうして動的平衡は地球規模でひきつがれているのだ。
 オリンパス製の内視鏡が、動的平衡の中にあるわが生命を見せ付けてくれた。動的平衡をつかさどるのは、科学をやはり超えた創造主であろう。「絶対無限の妙用に乗託して、絶対無限のわれらに賦与せるものを楽しまんかな」(清沢満之「絶対他力の大道」)に到達してしまうのだが、やや安直に過ぎるかもしれない。
 さて、わが自転車操業はエントロピーにまだ追い付かれず、きれいな胃だと判定されたが、追い付かれるのは時間の問題である。

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