日本という国がみるみる暗がりのなかに染まっていく。「戦後」と「震災後」という二つの時間に挟まれた難関に文芸評論家・加藤典洋は目を凝らす。対米従属、原爆と核、経済成長の神話、あらゆる主題にかつてない問い方が必要だ。だが来るべき世界の輪郭は、いまだ私たちに「未知」のままなのである。「日の沈む国から」(岩波書店)
このような時代認識が、生きている現場である個人、家族、企業、地域で、少しは共有されているのだろうか。古希を過ぎた老人にも、時代が激変するという予兆を日々の些末な生活の中で感じることができる。一言でいえば、既成の権威、既成の権力が、成熟してどこにも誰にもいきわたってきたネット環境という大波の中に沈み込んでいく構図である。
小さなビジネスの手伝いをしている。デザイン制作費3万円を振り込む段になって、ひとつの地銀が432円の手数料で、第2地銀といわれる方が108円と判明した。しかも高い手数料の地銀ではATNに受取人負担というソフトがなく、金額、指定銀行、ATMか現金かなどを自分で判断して計算しなくてはならない。窓口の女性に苦情をいうと、何度も何度もいっているのですが、改善されませんという。そんな苦情をおっしゃるのなら、当行を利用されなくてもいいのです、というようにも聞える。山一証券、北海道拓殖銀行がつぶれた金融危機の時に、この地銀も存続の瀬戸際に追い詰められ、公的な資金に加え地域からの増資も得てようやく危機を脱した。生き残りのやむを得ない措置として手数料に依存するしかないと判断したのであろう。あれからほぼ20年、地域の預金者に恩返しを考えてもいい時期である。その決断ができないとすれば、その企業体質こそ問題となろう。銀行の生き残り、再編成が差し迫っているのに、自ら身を切る改革ができなくては、暗がりの中に消えていく銀行となるしかないだろう。若き頭取よ、今こそ勇気である、前任に遠慮することはない。
また小さなビジネスの中で、親身になって救いの手を指し伸ばしてくれるのが信用金庫OBの人である。その人曰く。学歴もなく、企業ブランドがあるわけではないので、信金の誰々という個人で取引先に食い込むしかない。転勤先も県内しかなく、間違った助言で損害を与えようものなら逃げ場がありません。転勤転勤を繰り返す都銀、地銀大手は取引先に損害を与えても、個人としては逃げ切れ、ガバナンスと称して個人プレイは禁じられています。信金では取引先と心中する覚悟がいります。そんなところから、中小企業に自ら転じるケースが多い。そこで成功しているのは何人もいて、手を差し伸べても、苦労人ゆえにこちらに求めない。どちらが人間らしい働き場所かということになる。
この伝でいうと、電力業界も同様である。原発再稼働に狂奔する電力はかって満州は日本の生命線といって有無をいわせなかった陸軍を思わせる。労使ともにそうであるから社内の空気は窒息寸前となっていて、とても人間らしく働けるところではないだろう。
そして、地方政治である。新潟知事選でかすかに光を見たのだが、富山県議補選では野党統一候補が維新の後塵を拝することになった。選挙民にとって、保守がそれほど心地いいのであろうか。
よく考えてみよう。生産性は高まらず、先進性も革新性も期待できない地方に未来はあるのだろうか。もうしがみつくのはやめよう。加藤典弘がいう「未知のオルタナティブ」を目指すしかない。オルタナティブをこういう風に訳したい。別なる新しい道であり、弱者が最初につかまれるブイ(浮き輪)がある道である。それは辺境から作り出される。
「日の沈む国から」