昭和24年11月25日、東大法学部の現役学生にして、ヤミ金融会社「光クラブ」の社長が自殺した。銀座にあったオフィスの社長室で青酸カリをあおった。机の上には額縁に入った自らの写真を飾り、香を部屋いっぱいに焚きしめ、1週間前から綴っていた遺書を前にしての、まるで死への旅立ちを祝うかのようであった。山崎晃嗣(あきつぐ)、27歳。
「貸借法すべて青酸カリ自殺 晃嗣 午後11時48分55秒呑む。午後11時49分ジ・エン」と、ジ・エンドと最後まで書き切れなかった。清算を青酸とふざける余裕だ。「人生は劇場だ。ぼくはそこで脚本を書き、演出し、主役を演じる。その場合“死”をも賭けている」とうそぶき、狙い通りの死であった。マスコミ、識者はアプレゲールな事件とはやし立てた。アプレゲールとはフランス語で戦後という意味だが、旧体制では考えられない新しいモラルの出現といったところ。昭和史をめぐるノンフィクション作家・保阪正康が「真説光クラブ事件」で、この山崎の生涯を、半世紀の時を越えて取材を試みている。
根底に山崎の軍隊経験が色濃く影響しているのではないかと見る。山崎は入学後わずか1ヶ月過ごしただけで、学徒出陣で軍隊に入っている。初年兵扱いで怒鳴られ殴られての毎日。その後やはり学歴がモノをいうのか経理部幹部候補生となる。しかし敗勢濃厚な戦況もあってか、いらだつ上官たちは学徒兵にリンチに近い過酷な制裁が日常化させ、ひとりの学徒が急死する。上官たちは姑息な責任逃れをし、急患で病院に送り、そこで病死したことにする。今ひとつの体験は物資横領横流し事件で検挙されたこと。敗戦時、旭川で陸軍主計少尉をし、糧秣担当であった。上官に命じられて兵士用の糧食を旭川周辺に分散して隠すことになったが、運送屋が横流しと密告してつかまった。警察では拷問に近い取調べを受け、執行猶予付きながら懲役1年半の判決を受けた。21歳から23歳までの2年近い軍隊生活は愚劣な人物を見聞するだけの、全く意味のない時間でしかなかった。
大学に戻った山崎は猛勉強し、20科目中17科目で「優」をとる。全優を取るためのストイックな生活で、幅にないものだった。そこに女性が出現し、3年目で一変する。合理主義は「女は道具である」と見てしまう薄っぺらな性体験。そして、木更津市の市長を二代続けて務める名家である山崎家は経済に疎く、10万円の運用を彼に任せることになった。山崎は「利殖 五千円以上引受 毎月配当2割絶対保証 元教授責任管理 中野財務協会」の広告に惹かれて、あっという間にすってしまう。詐欺に遭って反省するよりは自らが詐欺師になってしまう道を選び、光クラブを創業する。昭和23年10月だから、自殺まで1年余の出来事である。
三島由紀夫も東大同期で、「青の時代」はこの事件がモデル。三島自身は「取材も構成もおろそか」で失敗作としている。興味深い話も。東大法学部で同級生たちの話の輪にまったく入らなかった二人の学生がいたという。それが山崎と平岡公威、すなわち三島だった。加えて、何と三島が市ヶ谷自衛隊で自決した日は昭和45年11月25日、無気味な一致をみせている。
保阪はこの事件の背後に軍隊生活での人間不信による屈折した心理を見て、これが三島と同様、多くの青年が左翼革命に向かったのに全く逆に振れたことを挙げるが説得力に乏しい。ライブドアの一件もあり、ふと戦後混乱期のこの事件を思い出させた。
昭和24年は戦後インフレの収束を図る経済安定九原則、シャープの税制勧告が施行され、中小企業がバタバタ潰されていった時期でもある。闇屋から衣料品店に転じたわが家もそうであった。
ところで朝日新聞27日朝刊。「風考計」で若宮啓文主幹が「いっそのこと島(竹島)を譲ってしまったら、と夢想する」と思い切った発言をしている。想像しないわけではなかったが、勇気ある言及に拍手を送りたい。そして、この問題で絶対に右翼の跳梁を許してはならない。諸君これだけは肝に銘じておこう。
光クラブ事件