外交は天の時、人の妙という要素が絡まないとまとまらない。プーチン来日だが、わが首相が虚しくウラジミールと呼びかけているテレビ報道を見て、すぐにスイッチを消した。とても恥ずかしく、見続けることはできなかった。独りよがりの功名心だけで、滑稽であり、わが国の知性も矜持もこんなレベルかと思い知らされた。そんなこともあり、先月のブログ「うぬぼれ鏡」で触れた若宮啓文の遺作「北方領土問題の内幕」をもう一度ひも解くことになった。
1956年のことである。フルシチョフ第一書記とブルガーニン首相、この二人のソ連首脳こそ北方領土交渉の皮切りとなった相手である。渡り合った日本側は鳩山一郎首相と河野一郎農相だ。53年のスターリンの死去と朝鮮戦争の休戦はフルシチョフにとって、西側諸国との関係改善の好機に見えた。一方、吉田首相のあとを襲った鳩山にとっては、親米に傾倒した吉田と違う独自外交を目指しており、双方の環境は整っていた。サンフランシスコ条約に署名しなかったソ連とはいまだ戦争状態は法的に終わっていなくて、シベリアに抑留された70万人のうち戦犯とされた2000人ほどが帰還できず、国際社会の復帰に必要な国際連合への加盟もソ連の拒否権で果たせずにいた。鳩山政権の使命は日ソ国交回復にあると宣言し、農相に就任させた河野にまず漁業交渉をゆだねた。親米の吉田に対抗心を燃やす鳩山にアメリカは強い警戒心を抱くことになる。少数与党に加え、71歳で半身マヒの鳩山にこの厳しい交渉がまとまるとは誰しも想像しなかった。
まずソ連が動く。ソ連駐日代表部のドムニッキーが政府文書を重光外相に手渡そうとしたが、親米の重光外相は受け取らなかった。曲折を得て鳩山に直接わたることになるが、吉田茂を後ろ盾として外交のプロを任ずる重光の自負が、鳩山や河野の外交素人に任せられるかとなって影を落とす。交渉は55年にロンドンで、松本俊一全権代表と同じくマリクの間で始まった。冒頭、歯舞色丹二島返還で平和条約を結ぼうとマリクは切り出す。松本は幸先良し、と重光に打電するが、重光はこれを蹴って四島返還を求めろと指示する。かん口令を敷いて、鳩山にも伝えなかった。アメリカと外務省が条件を引き上げたのである。保守合同なった自民党の党議も四島返還として歩調を合わせる。対するソ連は漁獲制限でしっぺ返しに動く。河野はこの難題に向けて、クレムリンに向かうことになる。重光は漁業問題だけですよ、領土には踏み込まないように念を押してくる。ブルガーニンと対峙する河野は単独で、相手側通訳だけで乗り込んだ。一方的に押しまくられるが、日本の漁民はこのままでは生きていけないと食い下がり、暫定協定を結ぶことになる。ところが調印の席に党官僚が出てきて、国交回復が前提だという。あんたとこの首相が暫定といったのだぞ、と席を立つ剣幕で強気に出て何とか調印という一幕もあった。
平和条約を急ごうと重光外相の出番となったが、皮肉にも重光が2島返還でよしという豹変する判断をする。洗練された西欧流の交渉術で正論を吐く重光に、粗野ともいえるフルシチョフは2島で譲り、漁業でも譲り、これ以上何をいうのだとまくし立てる。やむを得ぬとした重光の妥協は鳩山、河野を含め全員に一蹴されてしまう。重光は帰途、ロンドンでダレスと会うのだが、ここで恫喝を聞くことになる。「国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄はアメリカの領土とする」というそれである。
そんな中で、鳩山は訪ソを決意する。歯舞色丹の即時返還と国後択捉の継続交渉が前提での背水の陣である。1週間にわたるモスクワ滞在で結論を出すことになるのだが、領土交渉はフルシチョフと河野の一騎打ちとなった。焦点は国交正常化のあとも領土交渉に応じる、の一文を挿入するかどうか。当初文案に入っていたが、最後になってソ連は何としても削ると主張する。天国から地獄への暗転だったが、それでも河野は粘る。そして思いついたのが「松本―グロムイコ書簡」を公表するというもの。そこには領土問題の継続審議を確認すると書かれている。ようやく愁眉を開き、鳩山は感激の涙を流すのである。その批准国会であるが大荒れに荒れた。自民党の82人が欠席したが、社会党、共産党は賛成して成立した。フルシチョフはハンガリー動乱前の対応に追われ、調印式には出ていない。そして、日を置かずに失脚している。
そう思うと、プーチンの頭の中には、ほとんど今回の交渉は既に終わったものとして、シリア情勢、オバマのいう米大統領選への介入問題がほとんどだったのではないか。上の空で対応していたといっていい。
「相手国の歴史、文化、宗教を学ばないと海外から馬鹿にされる。彼らと対応するのに日本のものさしで外交を行ったらしくじる」と警鐘を鳴らした藤村の言葉に頷くしかない。
鳩山・河野の日ソ交渉