俳諧師逝く

「凩も哭き俳諧師逝きたもう」(こがらしもなき はいかいし ゆきたもう)。

その人からの電話は「本多町の密田です」で始まる。本多町とは加賀八家のひとつで、五万石の筆頭家老職本多家の屋敷跡に由来する。鈴木大拙の生家跡の碑の真ん前がその人の家。密田靖夫さん、73歳。11月22日、幸せな人生の幕を閉じた。

掲句は福永鳴風富山県俳句協会名誉会長が祭壇に献じた弔句。俳諧師とあるが、本業は銀行マンである。昭和30年に北陸銀行に入行、主に審査畑を歩いた。手がけた「信用調査の手引き」は北銀のバイブルとして引き継がれている。犬島伸一郎前頭取の弔辞は胸を打つ。薫陶を受けたくて、志願して部下にさせてもらった。「誰が言ったから正しいではなく、何が正しいかを考えろ」と安易に権威に寄りかかることを戒め、自らの洞察力を常に求めた。一つの価値観で銀行員人生を貫いた丈夫(ますらお)であり、愚か者は老年を冬とするが、賢明な人にとって老年は黄金期、文字通りそのことを実践された。俳諧の著書は他の追随を許さない。「桔梗や男は泣いてはならぬもの」。

蓉子夫人によると、犬島頭取が辞任すると聞き、病床からすぐに「よくやった」と電報を打っている。熱いものが込み上げてきたのでしょう。蜜田の生活態度が一変するのは、昭和56年大阪支店長赴任中に肝臓に異変ありとの診断があってから。帰宅してすぐに2階の書斎に閉じこもり、南都六宗の仏典をむさぼり読み始めた。以後この病と仲良くつきあい、古典に、俳諧にとのめり込んでいく。密田の中に流れる血脈。貴賎をいえば間違いなく貴に属する。それは才覚の商人、潔き武士、俳諧の文学へと連なる。父方は薩摩組と呼ばれた売薬の能登屋。薩摩藩は琉球との密貿易が露見するのを恐れ、幕府隠密などを警戒して、他国人の出入りを認めない。爆薬の原料となる硝煙を持ち込むことを条件に潜り抜ける。そして北前船を太平洋に迂回させ、中国、琉球で珍重される昆布を運ぶ。薩摩に巨万の富が入り込み、能登屋の才覚こそ明治維新の薩摩を経済的に支えたといっても過言ではない。そして母方は、戊申の役長岡戦争でしんがりを務めた加賀藩士・吉川靱負(ゆきえ)の流れを汲む。明治維新で全く出遅れてしまった加賀藩の凋落は眼を覆うばかり。その加賀藩にあって武士の意地を見せたのである。そして俳文学者でもあった父・密田良二。旧制四高教授、金沢大学教育学部国語科教授を務めた。読む書物のない時代、中学生の時に父の蔵書をひたすらひもといていたという。そして大学人、俳人、学生が出入りする中で自然と文学が身体にしみこんでいったのであろう。この三つの血こそ彼の人格を作り上げた。

北銀の社内報に連載した「芭蕉の句碑」がそのきっかけとなり、富山市民大学の俳文学講座を引き受け、その講義録の四年分をまとめて刊行したのが「芭蕉 北陸道を行く」。これが平成十年の泉鏡花記念金沢市民文学賞を受賞している。面目躍如は9月20日開催の琵琶曲「耳なし芳一」演奏会。小泉八雲百回忌追悼と銘打って、会場はゆかりの富山市豊城町、蓮照寺。八雲の蔵書のヘルン文庫を旧制富山高校に寄贈した馬場家、そして密田家の菩提寺である。自らヘルン文庫から原本をコピーで送ってもらい、入院先の病床でワープロを打ち、密田オリジナル作品に仕上げた。古文がすっと読めたのである。中学、高校が大事というのはよくわかる。地語りは父の愛弟子である高見よ志子さん。薩摩琵琶を奏するのは寺本拳嶺さん。作家志望を一途に貫き、タクシー運転手で糊口をしのいでいる情熱の人。妙な縁ながらウマがあったとしかいいようがない。八雲百回忌は本当は来年、みんなの懸念を押しのけての開催であった。これも寿命を見越してのものだったのかもしれない。来年もう一度やってほしい。「病窓の蜻蛉(とんぼ)よ家まで翔んで行け」が闘病のベッドで詠んだ辞世の句。小生は北陸キャピタルの社長に就任された昭和60年からのつきあい。随分とかわいがってもらった。

はてさて、無常は続く。わが中学、高校の同級生・野村慎吾君が11月24日交通事故であっけなく逝ってしまった。21日夕刻軽自動車にはねられ、高岡厚生連病院にはこばれたが、脳挫傷で意識を回復することはなかった。高校時代に神通川の河原で昼飯を食いながら、語り合った仲である。

© 2024 ゆずりは通信