逝き方の極意

 合理主義者だと自称しているが、この本を読むとご都合主義のそしりは免れない。上野千鶴子のいう「在宅ひとり死」を取り敢えずの逝き方として、合理主義者の当然の結論とも思ってきた。ところが「おひとりさまvs.ひとりの哲学」(朝日新書)で、男と女の認識の差が突き付けられた。対談で構成されており、相手は「思想としてのおひとりさま」である宗教学者の山折哲雄。妻子はいるが子は独立し、いまは夫婦世帯である。厳密にはおひとりさまでなく、思想としての断りが入るゆえんである。一方、正真正銘の生涯独り身を貫く上野は「実践としてのおひとりさま」と自ら称して、対談を通して鋭く対比させている。タジタジの山折がわが身と重なっていく。厳しい糾弾の新書でもある。

 山折は1931年生まれの86歳。昨年末に不整脈からの脳梗塞で倒れ、心臓にカテーテル5本を入れる手術をしている。発見したのは夫人なので、おひとりさまの生活であれば助かっていない。不謹慎だが、こんな指摘もしておきたい。病院に担ぎ込まれての救命手術で、他に選択の余地がないままにほぼ500万円を超える医療保険を使っているはずだ。この場合に自分で判断できる状態であれば、手術の諾否に応えなければならない。山折クラスであれば、延命となるので拒否するか、手術費を全額自己負担するか、その額を若年層の医療に回してもらう寄付に充てるとなる。おひとりさま矜持の判断があっていいと思う。男おひとりさまの甘さ、ご都合主義である。

 上野の批判は厳しく鋭い。山頭火、放哉にあこがれを持つような男たちは野垂れ死にを礼賛するが、老いと死に対する思考停止の現実逃避以外のなにものでもない。心の隅では最後は女に看取ってもらえると思っている。いい気なもんだね、というわけだ。その点、女の人から野垂れ死になんて聞いたことがない。覚悟を持って想定しているし、準備が出来たからあなた(夫)は早く逝ってもいいのよ、などと真剣に思っている。

 さて、実践おひとりさまの上野はこう考えている。家族を作ることを、自分の意志で選択しなかった。そのことをまったく後悔していない。どうしてかっていうと、誰かと運命共同体になることを一切したくなかった。もちろん確信犯的な無神論者だ。言い換えると、神を殺した個の、おひとりさまで生き切ってみせようというもの。ひとり死にゆくさみしさは癒されるのか。上野の答えはいらぬお節介だという。臨床現場の医師とか看護師とかはそれに応えねばならぬ、と過剰な責任を口にする。まして看取り士養成の柴田久美子などは「抱きしめて送る」という。その程度でいやされるものか、と疑問に思っているのだ。死にゆく父を見ていて、悪いけど死んでいくのはあなたであって、私ではない。あなたと私の間には絶対的な溝があって、どうしても超えられない。共感もシェアもしてあげられない。そう心の中で叫んでいた。

 それでは彼女の死生観の本音はどうか。文藝春秋の安楽死アンケートに「安楽死、尊厳死に反対」と答え、「最後の最期まで迷い、悩み抜けばいい」と書く。精神科医のキューボラ・ロスが「死ぬ瞬間」という著書で死の受け入れについて、否認と孤立、怒り、取引、抑うつ、受容と5段階を経ると分析しながら、自分自身はといえば、悲嘆と怒りをぶちまけ、自分の運命を呪詛しながら死んでいった。それを知り、なぜか安堵した。何でもありでいいのだ、わめいて抵抗し抜いてもいいし、従容と受け入れてもいい。突然死でもいいし、ぼけてもいい。自分自身の老いと死に対する受容の幅が広がった。実存的おひとりさま宣言でもある。

 人は最期は自然に還るとのたまう山折を、甘ったれのおっさん感覚といわんばかり。思い出したのが清沢満之の「絶対他力の大道」の一説。「独立者は、常に生死厳頭に立在すべきなり。殺戮餓死、もとより覚悟のことたるべし」。子が餓死しようと、それは彼らが甘受すべき運命とまで断じる。上野のいう実践おひとりさまの凄まじさに、たじろいだおっさんでした。

 さて、逝き方の極意も、果てしない荒野を行くがごとし。良寛のように、貞心尼が現われて柔肌で包んでくれるなどという妄想は捨てるべし。甘くはないのだ。

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