ドキュメンタリー映画際

ニュース映画を見なくなって久しい。テレビが普及していない時は、映画の始まる前に必ず上映されていた。1900年、東京神田の錦輝館という劇場で上映された「北清事変活動大写真」がスタートだという。大島渚が68年に製作した「大東亜戦争」は一切コメントを入れず、新聞、ニュース映画だけで作り上げたドキュメンタリーだった。
 こんな話を持ち出したのは、山形国際ドキュメンタリー映画際が異彩を放っているらしいからだ。三里塚の空港反対闘争を戦う農民たちをカメラに収めてきた小川紳介の提唱で89年に開始され、2年に一度の開催。今回が9回目で、「日本に生きるということー境界からの視線」と題して、在日外国人に関するフィルム50本を一挙に上映し、監督達のシンポジウムも行った。映画史・比較文化を研究する四方田(よもだ)犬彦が「世界」1月号に寄稿している。山形市もやるものだ。
 現在の韓国映画の隆盛を見ると不思議に思えるが、日本が植民地として統治した時代は朝鮮人がメガホンを握ることはできなかった。映画は最大の宣伝媒体であり、皇民化政策を強引に進めるには手放せない武器なのである。金載範(キムジエポン)の「三つの名前を生きた映画人」では、創氏改名で日夏英太郎と称した許泳(ホヨン)を描いている。許はそれでも監督業を続けたくて、朝鮮総督府に願い出て、朝鮮人に日本の志願兵になることを呼びかける御用映画を撮った。その後日本軍報道班の一員となってジャカルタに渡り、オーストラリア軍捕虜が日本軍捕虜収容所で快適に過ごしている宣伝映画の監督をしている。戦後は親日派として糾弾されることを恐れ、ジャカルタに留まり、インドネシア独立後はドクトル・フェンと名乗って、かの地でメロドラマを撮り続けた。
 辛基秀(シンギス)の「解放の日まで 在日朝鮮人の歴史」は、日本における朝鮮人の歴史的足跡を辿り、聞き書きを重ね、映像資料を蒐集して作られた3時間半にわたる労作である。数々の労働争議や朝鮮人虐殺事件を、生存者と関係者の証言が篤実に積み上げられている。朴寿南は作家から映像に転じた。その理由はこうだ。「加害者の側に立つ者は実に饒舌だ。だが被害者の側は、一様に寡黙で、その眼に恨の炎が燃え盛っているのに、テープレコーダーの前で沈黙を続けるばかりだ。書物という媒体を通してそれを私の言葉に切り替えて記すことは、彼らの沈黙を貶めてしまうことである。その点カメラは、沈黙と絶句をあるがままの形で記録してくれる」。呉徳沫は「自分が映画を撮ってきたのは、殺したい奴、憎い奴が韓国人にも、在日にも、日本人にもたくさんいるからで、実際にそれを実行するとテロになる。だから代わりに映画を撮っている。映像で落とし前をつけないと、死んでも死に切れない」と凄まじい。
 四方田は提言している。イスラエルでは、およそ世界中にあるすべてのフィルムにあって、1コマでもユダヤ人が撮影されているものがあれば、無条件に保存している研究所があり、それはあの「シンドラーのリスト」の収益金で運営されているという。同様の施設を在日映画のために設立することはできないだろうか。東京のフイルムセンターは官僚的な体制からして、日本国籍を持たない映画人のために、わざわざ積極的に作品の保存を引き受けるとはとても考えられない。民間の篤志家の援助があって初めて可能になる。このままでは、せっかく在日の2世や3世が苦心して製作された作品が散逸したり、フィルムの劣化を招いてしまうと切実に訴えている。ここはビートたけしの出番かなと思うがどうだろう。
 ところで、こうした在日の作品も含め「血と骨」や「GO」などが、韓国の観客に無視されているらしい。

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