この映画はわがキネマベストテンに入ることは間違いない。遠藤周作の「沈黙」を28年かけて温め続けたニューヨーク生まれのスコセッシが、監督、脚本、制作を担った。字幕付きの米映画だが161分、身じろぎもせずスクリーンに見入っていた。1640年、江戸時代初期に布教のために日本にやってきたイエズス会の宣教師フェレイラが、厳しいキリシタン弾圧に屈して棄教したという手紙がマカオの神父のところに届く。信じられないという弟子ロドリゴとガルぺは、直接確かめたいと日本に向かう。マカオに流れ着いていた日本人棄教者キチジローがその手引きをして何とか長崎・五島列島に潜入し、土着の隠れキリシタンたちと出会う。キリシタン狩りは苛烈を極め、ひとり残された若き司祭ロドリゴが苦しみぬいて踏絵を踏んでしまう凄まじい葛藤を描いている。このシーンを刻み付けてほしい。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい」。彼は足をあげた。足に鈍い痛みを感じた。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。彼は半狂乱で叫ぶ。「主よ、あなたは今こそ沈黙をやめるべきだ」。この小説を書きあげることが出来たら、もう死んでもいいとまでいい切った遠藤周作の思いが詰まった渾身のメッセージである。
神は存在するのか。突き詰めて考えることはないが、神の啓示を聞いたという友人がいる。彼は東大西洋史学科を出て福音社に勤め、「聖書を読む」「ヨハネ黙示録講義」などを著している。身近にキリスト教を感じた初めである。その神に殉じて死ぬことも厭わない殉教者をみると、胸の内には確実に存在するのだろう。しかし遠藤周作の問題意識の中にあるのは、おのれの弱さゆえに拷問や死の恐怖に屈して転んだ背教者はどうなのかということ。彼は10歳の時に母が父に棄てられ、12歳の時にその母がカトリックの洗礼を受け、自分も母に従って受洗しているのだが、自分の奥底にある汎神論的な感性との違和感に悩むことになる。沈黙は日本人とキリスト教との距離を初めて埋め得た文学作品といっていい。初版は1966年、ハードカバーで410円。21歳で手にしているのだが、まぶしい1冊である。
さて、この映画の何がいいといって、演じる俳優たちが作品に流れる深遠なテーマを深く理解していることだ。まるで新劇の滝沢修、宇野重吉が演じているのではと錯覚したくらいである。最も秀逸は宣教師フェレイラを演じたニーソンだが、既に仏門に入り沢野忠庵と名乗り、なぜ裏切ったのかと迫るロドリゴとの対決場面は、能を見ているようで日本の伝統芸術への畏敬さえ感じさせた。このフェレイラを転ばせた奉行・井上筑後守を演じたイッセー尾形も、英語で歌舞伎をやっているようで宇野重吉を彷彿とさせる重厚な演技だった。その伝でいけば、通辞を演じる浅野忠信は仲代達也ということになる。
そして何よりも書き加えておきたい二人がいる。映画監督ながら俳優として挑んだモキチ役の塚田晋也と、パリ在住で演劇をやっていてイチゾウ役を演じた83歳の笈田ヨシ。隠れキリシタンのリーダーとして、海中に立てられた十字架に縛りつけられ、激浪に打ち付けられての水責めだが、一貫してひるまない面構えに日本人の誇りさえ感じることができた。
2001年3月に友人たちと長崎・大浦天主堂を訪ねている。ステンドグラスに輝くサンタ・マリア像に並んで踏み絵を見て、軽い気持ちでちょっと踏めばいいのだからとささやく井上奉行の声がよみがえった。わが国にキリスト教はふさわしくない。無駄な布教のためにどれほど民百姓が苦しんでいるか。抗うよりも軽く踏んでしまって、楽な生活を楽しめばいい。みんなが楽になるのだから。
転んだフェレイラにも、ロドリゴにも精神的な安穏は訪れなかった。何度も裏切り、転びまくったキチジローにも安息が来ることはない。もちろん馬齢を重ねるばかりでは老後の安穏などは当然やっては来ない。地獄は一定(いちじょう)と開き直る方がいいかもしれない。
朝日の天声人語が1月24日付けで、東京文京区の切支丹屋敷跡からと沈黙を取り挙げたのでつい余計な力が入ってしまった。
「沈黙―サイレンスー」