言うまいと思えど、きょうの政治かな。緑陰で蝉の声を聞きながら山本周五郎を読み返してみたい心境ながら、胸中がざわめいて許してくれない。にわかに集団的自衛権の行使容認に向けシンゾー君は動き出した。解釈改憲という姑息に、法制局長官人事という姑息を重ねてねじ込もうという算段らしい。笠にかかって、この時とばかりに小松一郎・駐仏大使を法制局長官とする人事を断行する。第1次安倍政権当時の国際局長で、集団的自衛権行使に関わる私的諮問機関の事務作業に携わっていた。ひとり息巻くシンゾー君に、取り巻き連中が「グッドアイデア。いいぞ、シンゾー」と囃し立てているという図式だろうか。
しかし、早くもそれに立ちはだかろうという御仁が現れた。坂田雅裕・元法制局長官である。04年からほぼ2年間その任にあった人だが、実に小気味いい。「内閣法制局長官が時の政権によって解釈を変更できるなら、企業のお抱え弁護士と変わらない。自衛隊が地球の反対側に行ってまで戦闘行為に加わることができるようにしたいなら、改憲してからだ。自衛隊員に犠牲者を出し、他国民を殺傷する覚悟が国民にあるのか。それを確かめず一内閣の判断で解釈を変更することはあり得ない。もしやるなら政権も相当の覚悟が必要だ」(東京新聞8月3日朝刊)。
もちろん、これほど簡単に阻止できるとは思わない。長期政権予想の前に官僚はなびかざるを得ないだろう。権力を弄ぶものは必ず人事権を振りかざし、踏み絵を迫る。経産省は原発の、農林省はTPPの、文科省は偏向教育の踏み絵を、そして法務局には集団的自衛権を、人事権という刃物を突きつけて迫っていることは間違いない。法制局も事務レベルでは、それぞれのシナリオが用意されているはずである。左遷または辞表覚悟で抵抗する硬骨官僚が出現すればいいが、どう転ぶかわからない。
思えば、朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、イラクへの自衛隊派遣でも、第2次大戦後ひとりの戦死者を出してこなかった。憲法第9条があり、その実質として集団的自衛権を認めなかったからである。このことを銘記しなければならない。
さて、小野寺防衛大臣はNHK「日曜討論」で、日本の防衛のために展開したアメリカの艦船が攻撃を受けても日本が反撃できない今の状態は問題があるとステレオタイプの理由を挙げるが、反論する植村秀樹・流通経済大学教授と前泊博盛・沖縄国際大学教授の方がはるかに迫力があった。誰しも虚実が判断できたはずだ。同大臣がオスプレイ配備で、これは前民主党政権が容認したことで自民党政権は迷惑していると臆面もなく責任転嫁しているが、この政権の軽すぎる幼稚さを象徴している。
このままでは確実に、アジアの、いや世界の孤児になることは間違いない。麻生副総理兼財務相のナチス政権のあの手口に学ぶべき発言はこれに拍車をかける。佐藤優がいみじくも指摘している。日本がナチス・ドイツ、ファッショ・イタリアと同盟国であった事実と麻生発言が結びつけられるのは必至だ。自由と民主主義という第2次大戦の結果、国際社会の主流となった価値観を認めていない日本の政治エリートということになる。大日本帝国と現在の日本国は別の国家という前提で、日米同盟が成立している。ところが現政権は、その歴史認識と人権感覚において、いまだにこの敗北と責任を明確にせず、戦前回帰を夢見ている。この前提が危ういとすれば米国の懐疑は深まる。ナチスと同じ大日本帝国の亡霊にしがみつく政治家集団が政権をになっている輩との日米同盟になるからだ。安倍首相自身がまだ靖国参拝にこだわっているのだから、日米同盟強化というのは明らかに矛盾撞着であろう。このような状況に自らを追い込んで、中国と言葉遊びのようなチキンレースは危ういことこの上ない。
日本の野党を見下して溜飲をさげているようだが、米国に拠点を置くユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が相手である。眼を覚ますべきである。
危うい日米同盟