「青春のすべてをたぎらせ、明日を夢見る新劇青年だった・・」で始まる、潔い引退宣言が届いたのは、2月の初めであった。仕事上の付き合いをしている時は、こちらも余裕がなく、これほどの修羅場を生き抜いてきた人とは知らなかった。NHK俳優養成所を出て、15年間のタレント稼業に疲れ果て、肝炎も患った。臥せる男に、このままでは死ぬぞ、という友人の口利きで、富山での草分け的な広告代理店「エスピー企画」に席を置いたのは36歳の時である。昭和47年であったという。
「拝復 男かくありたいもの」とハガキを投函して間もない12日、演劇鑑賞会でバッタリ顔を合わせた。「昔話をしながら、飲みませんか」となるのは、当然?の成り行きで、3時間ゆっくりと語ってもらった。
昭和11年、大連の生まれだ。やり手であった父親は、関東軍御用達の商社を大連で営み、大変な羽振りであったという。もともとは氷見の真宗大谷派末寺の次男で、代用教員を務めた後、婿養子となり、銀行員として大連支店に勤務した。商社を興すに際して、婿養子先との縁を切り、子供ふたりを氷見の実家に預けて、単身で挑んだ。この父親が、結婚歴を隠して福岡出身の女性に産ませたのが自分。敗戦を前に離婚を決めたようで、物心のついた5歳の時に、京都駅で母親から剥ぎ取られるように、氷見に連れて来られた。母とは縁の薄い異母姉兄と自分が、氷見の寺に一緒に住むようになった。そんな出自をもっているから、ひたすら耐え抜く処世術を身につけたのだという。
NHKテレビドラマ「事件記者」をご存じだろうか。この人気番組に中央日日のトッしゃん役でレギュラー出演していた。その頃に広告代理店からの出演依頼があり、ギャラはNHKの出演料を大幅に上回っていたので、自分でも何とかなる仕事だろうと、エスピー企画行きを決めた。
さて、エスピー企画であるが、若きUターン組が多く、本業の他に「とやま21世紀」なる地域情報誌も発行していた。コピーライター、また当時として珍しいマーケッターなる人材も揃って、市場調査も得意としていた。今にして思うと、梁山泊といっていいかもしれない。人材は揃っているが、如何せん資本が脆弱であった。資本の出し手は、地元の水産業、医薬品、浄化槽工事などの旦那衆のポケットマネーであり、しっかり支えるものではなかった。広告代理業というのは、媒体への資金立て替え業というのが実態。広告主から支払いが6ヶ月の手形ともなろうものなら、その金利だけで利益がなくなってしまう。このエスピー企画も、イベントの失敗を機に経営が行き詰まってしまった。運よく情報処理企業に、全従業員とも引き取ってもらって、事無きを得たのだが、富山の広告界にとっては幸いだった。
しかしこの演劇青年、感受性の豊かさゆえか、この下請け的な処遇に我慢ができなくなってくる。社内の空気も、ある種の安堵感からか、覇気もなくなり、大企業に依存していこうというものになっていった。そして、ある不動産業と組んで、ひとり飛び出す。裏切りのようにも思えたが、これしかないと思い定めた。その後僥倖ともいうべき遊戯業の大手との取引が急拡大、順調に業績が伸びた。温かい家庭との願いも、二人の男の子も得て、かなえられていった。ところが平成9年、この遊戯業大手は破綻し、5000万円の負債を抱え込むことになる。この時の人様々の対応が、身にしみた。考えてみれば、有為転変を絵に描いたような人生であったが、いまはすべてにありがたいと思えるという。この負債を無事返済し、72歳の誕生日をもっての引退となったのである。
15日の“うたごえ倶楽部”にも馳せ参じてもらった。こんな人もあり、定員40人としたが、56人の参加を得て、椅子運びに汗を流した。
引退宣言