哀しき殺人

人間の身体や生命は、いまを生きているだけなはずだ。知性だけが、自分の未来に視線を送る。そのことによって、自ら“飲み込まれていく”というワナにはまっていく。それは一体なぜなのか。自分を除外してしまえば私たちは未来への想像力を高めることができるのに、自分の未来になった瞬間に、なぜ人間は想像力をしぼませてしまうのか。ここには解いてみたい人間の実存の問題があるような気がする。3日以上先のことは考えない。私はこのことにこだわることによって、かろうじて現代社会のなかの自分の場所を確認していたのかもしれない。(「図書」1月号から)
 こんな持論を展開し、そのように生きてきた、というのは哲学者の内山節(うちやま たかし)だ。こんな哲学も、庶民には届かない。蓮如だったら、どんな説教をするのだろうか。
 長い引用になったが、わが郷里・射水市で起きた殺人事件だ。事件を報道するテレビ画面は、見慣れた書店を映し出していた。3月1日午前4時ごろ、61歳の女性店主は、自宅で寝ていた31歳の長男を包丁で数回切りつけて殺害した。長男は、家事手伝いというが、引きこもりであった。母親は犯行後、自分の手首を切り自殺を図ったが、死にはいたらなかった。
 書店のある新町通りは、繁華街であった。時計屋、乾物屋、金物屋などがひしめいていた。ふたつ年上になる2代目店主が、自転車の荷台に月刊誌、週刊誌を詰め込んで、配達していたのが昨日のように思い浮かぶ。彼は数年前に病死している。この商店街の今はどうか。一方通行の狭いシャッター通りは、たまに車が行き交うだけで、通行する人を見かけることはない。想像するに、家計をやり繰りするのにギリギリの生活に、この長男の行く末が重く圧し掛かり、母親を追い詰めていたのであろう。留置場で何を思っているのだろうか。ひとつの負には耐えられるが、ふたつ目の負に追い討ちをかけられると、その想像力は奈落へと落ちていく。3日だけ待ってみよう、という哲学は持ち合わせないのだ。
 何となく、ドストエフスキー「罪と罰」の主人公・ラスコリーニコフに重なっていく。この殺人は衝動としかいえないが、ひょっとして確信犯めいた絶望の中の覚悟がそうさせたのかもしれない。また、殺す他はなかったと意外におだやかな心持が彼女を包んでいるかもしれない。後悔していることといえば、自分が死に切れなかったこと、それだけだ。とすれば、貧困に、ちょっとした不幸が重なる絶望という“死に至る”病は世に蔓延している。これは、明日はあなたであり、私であるということだ。
 東京からの客人に話すと、ありふれた事件ですよ、と耳も傾けない。殺人がありふれた事件になってしまった、ということか。内山節は続ける。「飲み込まれていく未来をつくりだしたものは、近代的な経済、社会システムや国民国家というシステムである」。そんなシステムを易々と受け入れていく心理とは何なのか。自分の未来を考える時、なぜ功利が滑り込み、恐怖が想像力を捻じ曲げるのか。
 ラスコリーニコフには、救いのソーニャが出現した。無垢な娼婦である。母の手で逝った長男に、必要だったのは何だったのだろうか。せめてソーニャの柔らかな胸に、顔を埋めさせてやりたかった。
 やるせない事件である。そういえば、書店の棚に「自死という生き方」なる本を見かけた。哲学専攻の須原秀一立命館大学講師、65歳の書だが、昨年6月覚悟の自死を遂げたという。とても手にすることはできなかった。そして帰り道、こんな歌を口すさんでいた。「生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ そうさ生きてりゃいいのさ 喜びも悲しみも 立ち止まりはしない  巡り巡ってゆくのさ 手のひらを合わせよう・・・ 」

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