迂闊、不勉強といって片づけられない。新聞の訃報で初めて李鶴来(イ・ハンネ)を知った。3月28日、都内の自宅で転倒し、外傷性くも膜下出血のため入院先の病院で亡くなったという。96歳だった。唯一の自著が「韓国人元BC級戦犯の訴え」(梨の木舎 2016年発刊)。富山県立図書館でようやく手にすることができた。そもそもBC級戦犯がわからない。東京裁判では、A級戦犯は平和に対する罪、B級は戦争犯罪、C級は人道に対する罪という分類。罪の軽重を問うものではなく、李鶴来もA級戦犯・東条英機と同じく死刑判決を受けている。植民地支配下で抑圧され、やむなく捕虜監視員になった朝鮮の青年が捕虜虐待で断罪される。凡庸な被害者が加害者になる。この理不尽、不条理をどう考えるのか。アイヒマン裁判を傍聴して、「凡庸な悪」と断じたハンナアーレントを思い起こした。荷は重いが論を進める。
李鶴来の生涯をたどってみよう。1925年朝鮮全羅南道で生まれ、17歳の時に捕虜監視員の募集に応じ、日本軍属となった。1943年には朝鮮でも徴兵制が実施され、根こそぎ動員という空気の中で避けることはできない。東南アジアでの初期の戦線では、連合国軍の捕虜が増え、その監視要員として朝鮮や台湾から3000余人を募った。釜山での2か月間の訓練は、「立派な日本人にしてやる」と殴られっ放しの日々だった。連れていかれたのはタイの泰緬鉄道建設現場。映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる。劣悪な衛生環境、過酷な労働、食料事情などで捕虜およそ1万人が死んだ。生きて虜囚の辱めを受けず、とする日本軍に捕虜を人道的に扱うなんて念頭にあるわけがない。難事業に駆り立てるための暴力支配は日常化していかざるを得ない。これが虐待に相当し、裁判で罪に問われようとはこの時思いもしなかった。
戦後、シンガポールでの戦犯裁判は、捕虜監視員を「日本人戦犯」として裁いた。捕虜たちの憎しみは強く、簡単な首実検での即決裁判。李鶴来も一旦死刑となった。その後懲役20年の減刑となり、東京巣鴨プリズンに移され、1956年に仮釈放となる。減刑の理由が44年後の1991年にわかるのだが、捕虜であったオーストラリア人の軍医が死刑まで望んでいない旨の書状があり、それが決め手になった。因みに朝鮮人元BC級戦犯は、死刑23人、有無期刑125人の合計148人。
理不尽は続く。1952年サンフランシスコ講和条約が発効し、朝鮮半島出身者は一方的に日本国籍を失った。そしてあろうことか、すぐに復活させた軍人恩給や戦傷病者戦没者遺族等援護法の対象外とした。更に過酷なことに、故郷韓国に帰れないこと。対日協力者だという非難と、家族にも塁が及ぶという恐れ。17歳で朝鮮を出てから、再び故郷で暮らすことはできなかった。
35年余の植民地支配で徹底した皇民化教育を受け、軍属に仕立てあげられて、敗戦後は戦犯として死刑を含む裁きを受ける。加えて、日本が独立を果たすや、御用済みとばかりに外国人とされ、日本政府の補償対象外と切り捨てられる。これほどの理不尽、不条理があろうか。獄中であったが、韓国人元BC級戦犯が「同進会」を結成し、日本政府に謝罪と補償を求めるなどの拠点とした。しかし、ここでも65年の日韓基本条約などが結ばれると、「補償問題は解決済み」と運動は進展することはなかった。「日本人として恥ずかしい」と彼らに寄り添った今井知文・耳鼻咽喉科医師のことも記しておきたい。結論の前に、日本の戦争責任はまだ果たされていない。このことははっきりしている。
さて覚束ない結論だが、抵抗する権利を不可欠な権利として身につけよう。命令されたから、やらざるを得なかったという弁解はもう通じない。あなたには抵抗する権利が認められており、それを行使しなかったのだから、罪はあなたにある。さぁ、ミャンマー国軍の兵士たちに伝えよう。民衆に銃を向けることは犯罪であり、それが命令であっても、その罪は免れることはない。