終わりは、始まる何かを孕みながら終わりたい。そんな予感があれば、終わりは始まりでもあり、終わらなければ始まらないこともある。そんな思いを抱きながら、3月4日「森のゆめ市民大学」の最終講座に出かけた。魚津・天神山交流館はまだ冬の装いで、見慣れたスタッフが笑顔で迎えてくれる。思えば、洗足学園魚津短期大学の閉校がこの始まりであった。
最初の動きは、01年1月28日静岡県清水市(現・静岡市)にある清見潟大学塾を訪ねたことだった。 「遊び心で 大学ごっこ」「とことん学んで ちょっと臥せって あっさり死ぬ」「 市場原理の導入」などユニークなお題目に惹かれて、10人前後で訪れたのであるが、この時に洗足閉校のあとは市民大学で、というイメージが固まったように思う。
そして、同年9月20日に政治評論家・福岡政行白鴎大学教授を講演で魚津に招いた時だった。富山空港に送る途中、時間があったので洗足学園に案内した。その時に、筑紫哲也が大分・日田で自由の森市民大学をやっているよ、紹介するから姉妹市民大学という手もある、との助言に、これだと確信した。日田にも足を運び、開設準備会議を重ね、02年3月17日「森のゆめ市民大学」が開講し、洗足の講堂は1,000人近い受講者で溢れかえった。
それから10年、言い出しっぺ老人は無責任に彼の地を去ったが、地元の人が頑張った。特に一世代若い澤崎豊実行委員長が、亡き筑紫学長との麻雀、風の盆などとその謦咳に接し、粘り強く支えてくれたのが大きい。撒かれた一粒の麦が育ったのである。
地域力ということからすれば、魚津はちょっと抜きん出ていたように思う。人口4万4000人のどこにでもありそうな地方都市だが、今にして思うと洗足学園という大学を抱え込んだのが大きい。80年の開学で20年続いたのだが、池田弥三郎を初めとして、知を尊重する気運が自然に生まれ、知に誘われるように好奇心、行動力が芽生えていった。清見潟を訪れる前日に、NHK交響楽団のコンサートがはいっているのである。中博昭・学長が手配をしてくれて、それならと10人前後が集った。また、市民大学とは別に未来塾なる講座を設けて、洗足の知性の継続も意図していた。池田門下生である友尾豊・現京都産業大学教授の万葉講座、同じく八木光昭・現聖徳大学教授の近代文学講座などだが、これも10年継続できたのである。賞賛に値する出来事である。
もうひとつ挙げるとすれば、ホテルの存在である。東京第一ホテル魚津(現在のホテルグランミラージュ)だが、人が集る仕掛けが、音楽や、人を介在して企画しやすいことも見逃すことは出来ない。設立の株主をみて、こんな企業が5000万円も出資しているのかと驚かされたが、バブル景気があったにしても、地域企業の心意気でもあった。07年にそれも9割の減資という手酷いしっぺ返しを余儀なくされたが、それでも評価されるべきである。どんなパーティでも、同じ顔ぶれながら、その数だけは多かったように思う。もちろん音楽が必ずセットされていた。自宅はみすぼらしくても、ホテル機能を活かせば豊かなものが享受できるのである。こんな時代こそホテルを見直してほしい。
そして哀しい再会もあった。ボランティアでスタート時から精力的に関わってくれたKさんが手編みの毛糸の帽子をかぶって声をかけてきた。「私、がんなの。乳がんからリンパにも転移して、気が滅入るけど、こうして皆の顔を見ているだけで気が紛れるから来たのよ」。165センチの女偉丈夫がやはり弱弱しい。励ましの言葉がすぐに見つからないまま、筑紫さんの執念に近い戦い方もあるのだから、気合い負けしないようにと握手するしかなかった。
さて、終わりといえば、命も然り。避けることはできない。フランクルの「それでも人生にイエスを」をKさんに送るしかない。
終わりは始まり。