一点突破、そして全面展開

35年振りの授業である。歴史と文学という正統で系統立つたもの。森の夢市民大学の講座だ。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた」。ご存じ旧約聖書の天地創造の冒頭である。これを声に出して読むことから歴史の授業が。文学は芥川龍之介の「玄鶴山房」。死の病の床にある主人公が本妻に、一目妾に逢わせてくれと懇願する。やがて妾がその部屋に入る。「その時ふと、庭の木にが」。さて、これをどう読むか。首をかしげていると、鶺鴒は古事記によるとイザナギ、イザナミにセックスのやり方を教えたという。別名「恋教え鳥」とも。したがって、ここに鶺鴒が出てくることは、主人公と妾がここで結ばれたことを意味し、芥川が死の床にあってもうごめく男の性を描いている。近代文学を読み解くにはこうした背景を知る必要がある、と。

教壇に立つのは、歴史は奥田淳爾さん文学は八木光昭さん。二人とも元洗足学園魚津短大教授。短大閉校から3ヶ月。その教室に平均年齢65歳の40数名が講義に聞き入っている。何ともいい雰囲気なのである。

「一点突破、そして全面展開」か。帰る道すがら、いま読んでいる「現場主義の知的生産法」(ちくま新書)の一説がふとよみがえった。市町村合併で動揺する魚津市にとっての「一点」とはこの市民大学ではないかと思えてきた。著者である歩く経済学者・関満博は徹底した現場主義論者。小泉が振りかざす構造改革論は今のあらゆる現場に全く通じていない。成功体験の強すぎる既存勢力の、上からの取り組みでは変わり得ないと断言する。彼らは「現場」を見たこともなく、「前線」に立ったこともなく、何にも見えていない。「現場」が見えるということは、「現場」に愛情を注ぎ、「現場」に受け入れられることが必要であり、「一生付き合う」ほどの覚悟がなければ難しい。戦略論に「一点突破 全面展開」がある。既存の枠組みが強固である場合はこれしかない。一つひとつの「現場」に深く関わり、具体的な成果を挙げ、「やればできる」ことを広く知らしめていく。ひとつの小さな成功が周囲に刺激を与え、それが燎原の火のごとくに広がっていく。こうした現場を持ち得ない改革論は空論に過ぎない、と。

市民自治の小さな取り組みであるこの講座の現場には、小さな摩擦が渦巻いている。市の生涯学習は無料なのに、なぜここは有料なのか。市の施設なのに職員が手伝わないのはなぜか。講師の謝礼まで受講料でまかなうのはどうか。幹事である人の負担が大き過ぎないか、などなどである。これを辛抱強く説いていかねばならない。これを10人ぐらいのスタッフが担っている。何よりも市長自らがこの現場に立って、閑散としている施設に胸を痛めなければならないのではないか、と思う。この取り組みを成功させて、官と民の間を埋めるNPOの存在の必要性を体得すれば何にも怖くはない。市庁舎がどうの、病院がどうのも、現場に立って考え続ければ自ずと解決策が見えてくるというもの。その説得力も迫力が違うはず。経営者にしてもそうだ。地鉄の社長はほとんど客がいないバスや電車に一日乗ってみることだ。その労働がどんなに虚しいものか。現場で働くものと悔しさを共有してこそ、明日が見えてこようというものだ。関満博は「大学の先生のやることは、役に立たない」に反発して現場にはいった。現場を耕す人々と「会うたびに飲み」、何度も夜を徹して語らい続ける。そして「役に立つ」人間として信頼を深める中で、ようやく受け入れてもらう。権力や人事権を振りかざして現場にはいっても、それは現場とはいえない。彼はまた現場で「キーマン」たる人材の発掘が不可欠という。その現場のキーマンと「思い」を共有しながら、彼が思い通りに力が発揮できるように側面から徹底的に支援していくことも忘れない。この手法の成功事例は数多い。神戸震災復興支援での長田ケミカルシューズは好例。

一点突破は個人にもいえる。行き詰まった状況を打開するには、あれもこれもではなく、これぞという一点に絞り込むことだ。

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