気持ちがささくれだった時は、やはり茨木のり子である。書棚の最も取りやすいところにある。いまの心持からすればと、手に取ったのが「貘さんがゆく」(童話屋)。片手に納まろうかという小型本で、空港前の公園ベンチに腰掛けて読んだ。生涯、貧乏神をふりはらうことができず、借金にせめたてられながらも心はいつも王さまのようにゆうゆうと生きぬいた愛すべき詩人。沖縄出身の山之口 貘(やまのくち ばく)である。彼の生涯を茨木のり子がゆったりと語っている。秋日和のありがたい時間であった。
明治36年の那覇生まれで、昭和38年に59歳で亡くなった。40年以上、詩ひとすじに生きてきたが、作品の数は全部合わせて200編。1年に5編という少なさであるが、原因がある。実に楽々と楽しげに、鼻歌まじりに書いたように見えるがさにあらず、推敲の鬼として鳴り響いていた。短い詩を1編作り出すために、200枚、300枚の原稿用紙を書きつぶしてしまうのはざらだった。
この詩人には枕詞のように貧乏、借金屋、便所の汲み取り人夫だったと付く。農工銀行八重山支店長をしていた父の破産で、19歳の時に東京にやってきたが、これが長い放浪生活の皮きりとなる。住む家とてなく、土管にもぐり、公園や駅のベンチ、キャバレーのボイラー室がねぐらとなって、初上京の日から数えて16年間というもの、畳の上に寝られたことはなかった。それでも詩をせっせと書き、新聞社や雑誌社に持ち込んだ。求人広告を見て訪ねていくと、「朝鮮・琉球おことわり」と貼ってあることがしょっちゅうだった。
33歳の時に、結婚したくてたまらない気持ちを「求婚の広告」という詩を書いてようやく伴侶をつかんだ。見合いを世話したのは金子光晴だが、セールスマンという触れ込みで、貧乏暮らしなど知らせるわけもなく、校長の娘であった安田静江は意外にも貘の明るくて、さわやかで、やさしそうだったので、「結婚しましょうね」に素直に「はい」と答えてしまった。新宿区の4畳半のアパートから、布団、炊事道具まですべて金子と新婦側が用意した。生活の苦労を一手に引き受けた静江夫人であったが、「貧乏はしましたけれど、私たちの生活にすさんだものはありませんでした。ともかく詩がありましたから・・」と一人娘も育て上げた。
「精神の貴族」。彼を知る誰もが口をそろえてそう評する。今日はごちそうするといって付いていくが、いくらも持っていなくて、ごちそうされるはずの人がごちそうをすることになる。それでもごちそうされたような、豊かな気持ちになったというから、不思議な魅力があったのだろう。胃がんと診断された時には、入院費用も手術代もなかったが、詩友が奉加帳を回すと、佐藤春夫はまっさきに2万円と大書して回り始め、あっという間に目標額に達した。
ルンペン時代に「そんな詩を書いているくらいなら、階級意識にめざめて、プロレタリア詩を書け」と批判されても、「沖縄の本土復帰運動に、もっと政治的に積極的に取り組んだらどうか」と悪口をたたかれても平然としてゆるがなかった。集団を信じていなかったし、1プラス1が2という単純な算数では解決できないものがあるのだと、一匹狼を貫き通したともいえるかもしれない。
さて、ささくれだった気持ちと書いたが、残りの人生でもっとやれることはないのか。そんなささやきに悩まされている。
「貘さんがゆく」