寝台特急「日本海」

「さかた~。さかた~」。山形県酒田市。列車のマイク案内が入るのが午前7時。よく眠っていたらしい。5分停車の間に、慣れた客はスリッパ姿で弁当や新聞を買いにホームを行き来する。こんな光景も何年ぶりだろうか。峠の釜飯で名を馳せた横川駅で、われもわれもとホームに走り出したのを思い起こした。学生時代に上野駅でやったアイスクリーム売りのアルバイトも懐かしい思い出だ。続いて「きさかた~。きさかた~」。あの象潟かと見やると、ホームに「奥の細道最北の地」と大きな看板。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」が芭蕉の句。簡単な挨拶句。とは中国の美人女性。あこがれの象潟に来て、西施を思わせるねむの花が雨に煙って見えるという意。寝台のベッドを片づけて座り直すと、前の席は鉄道マニアの青年か、折れ線グラフの時刻表に見入っている。しばらく走って、この旅の目的地である羽後本荘駅に着いた。秋田県本荘市、人口は4万5千人の小都市。寝台特急・日本海3号で富山から約8時間、東北に向かうに最適の交通機関である。もちろん初めての利用。大阪始発で、日本海1号が函館、3号が青森行きである。

秋田とは縁のないところと思っていた。一度富山公演の手伝いをした、田沢湖畔にある「わらび座」の人から、ぜひおいで下さいと誘いを受けたことがある。銀座に秋田の郷土料理屋があり、「きりたんぽ」「とんぶり」「いぶりがっこ」に、「高清水」「爛漫」くらいがインプットされている。ところがこの4月、ゼネコンに勤める長男がこの地の勤務となった。

10月13日、連休を活用して思い切って訪ねることにした。土木工学を専攻したといっても、スキー、麻雀に明け暮れた学生生活。確たる思いもなく教授の推薦でゼネコン業界へ。研修の後、地下鉄「大江戸線」、新幹線、そして今回が高速道路現場だ。次はダム工事かと思うが、脱ダムということになれば難しいかもしれない。その前に、会社の存続そのものが危ない。株価が50円を切り、有利子負債が大台に達するとなれば、竹中に追い詰められる「危険な会社」の仲間入り。負け組みの烙印を押されて売り浴びせられている。

職場の雰囲気も聞かなくてもわかるというもの。徹底したコスト削減、工期の短縮、高齢者のリストラと若年者へのしわ寄せ。休日出勤にサービス残業、仕事があるだけでありがたいと思え、代わりはどれだけでもいる、嫌ならいつ辞めてもらっても結構。その上に建設現場特有の家族主義だ。3DKの借り上げマンションでの上司との同居。毎日が酒盛りで、使い走り。プライバシーもへったくれもない。でも、これが今、日本中どこにでもある職場の風景である。

というわけで、朝早く起こすのも悪いと思ってビジネスホテルにチェックイン。午前8時から正午までで1泊料金。中年の旅であれば許されるかと、ちょっと贅沢している。長男は睡眠不足の目をこすりながら現れたのが午後1時。昼食の後、観光名所の高台に連れて行ってくれるが、すごくダルそうだ。仕方がないとお前は昼寝をしろ、と一人市内散策に出る。

市役所裏にある本荘城城址が公園になっている。関が原合戦のあと、最上義光が重臣、本城豊前守満茂が築城。土塁の素朴なもの。明治元年の戊辰戦争で自焼してしまったという。その一画に満蒙開拓団の碑があった。口減らしもあっただろうが、次男三男が五族協和、王道楽土なるものを夢見て海を渡ったのであろうか。半数以上が帰らぬ人になっている。この地にもそんな歴史があるのである。

さて晩飯ぐらいは本荘一の料亭でと思ったが、そうしたものはまったく無し。海辺の町というのにとんかつ「とん喜」と焼肉の「じゅうじゅう」が最高という。仕方ないからと炉辺焼きの店に。北海盛の刺し身盛り合わせに箸をつけることはなかった。みちのくの食文化はまだまだである。たわいない話をして、約12時間の滞在で帰りの日本海2号に乗り込んだ。富山駅着が午前2時43分。駅前にタクシーがいなくて、深夜の街をひたすらに歩いた。合計24時間強の「みちのく一人旅」。親子の距離感も、このあたりがちょうどいいというもの。24年間の空白を超えた拉致家族の親子対面には遠く及ばない。

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