射水市民病院

「セーキは自分で洗いますか?」。作家の辺見庸が脳出血で倒れ、入浴介助をしてもらった時のことだ。倒れてからしばらく、オムツをしていた。歩行どころか立ち上がることも這うこともできなかった。10日以上過ぎてからで、副看護師という学校出たてくらいの若い女性に、「お湯は熱くないですかあ」「頭痒くないですかあ」と声をかけながら丁寧に洗ってもらう。味わったことのない至福というのか法悦のようなものが体の奥から湧いてきて、正直その女性に手を合わせて拝みたくなる心境になっていた。ややあって女性が言ったのである。セーキとは性器、おちんちんのこと。媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いかけだった。年号も住所も電話番号も友人達の名前さえ忘れていたのに、この「セーキは自分で洗いますか?」は記憶としてすぐに深く着床した。恥辱は豪も感じず、むしろ好感し、歓びと安堵さえ覚えたという。ほっこりと人間的だったからだ。
 3月9日昼過ぎのことである。新湊の実家に落ち着く間もなく、携帯が鳴った。両親のいるグループホームからである。父が胸を押さえながら倒れ込んだという。救急車を手配したから、すぐに来てほしいと慌しく告げた。駆けつけると、救急車のベッドに括り付けられていた。既往症で思い当たることがあるかと問われるが、思い当たらない。救急士は電話で心臓外科での対応が出来るかどうか確認して、射水市民病院に運び込んだ。
 心筋梗塞で冠動脈に2カ所の血栓がみられ、カテーテルを挿入する、と若い医師が説明をする。しばらくして緊急措置室から出てきて、心臓が止まってしまったから、電気ショックをやってみるという。94歳の高齢ゆえに血管自身が脆くなっており、リスクは高かったが、結果的には奇跡的な回復をみせ、28日の退院が決まった。その間に見覚えのある院長もかけつけており、かってとは見違えるような診療姿勢が見て取れた。医師とのやりとりでは、問われるまでもなく「高齢だから、身体に負担の大きい治療は避けてほしい」と答えている。
 一方で、この入院でグループホームから退所の通告を受けている。既に待機中であった人が入所してしまっているのである。グループホームの運営効率を考えると当然とも思えるが腑に落ちない。さりとて、再入所権利を持ちつつ、長期の入院治療を受けることが出来るかといえば、これは余りに身勝手に思えてくる。というわけで、認知症が入院を契機に進んだにもかかわらず、取り敢えず在宅から始めなければならない現実が待っているのだ。生活支援であるケアと病気治療のキュアがかけ離れ、そのために家族は翻弄される。これを支える家族を持っている人はいいが、そうでなければひとり放り出される厳しい医療福祉の現実だ。
 25日、射水市民病院は安楽死を巡って報道陣でごった返す渦中の病院となった。身体に負担をかける治療を避けてほしいといったあの一言を、医師はどう判断しただろうか。他人事でない。もし心筋梗塞から脳障害となり、身体の機能麻痺を招来していたら、家族にとってより厳しい事態が突きつけられる。本人にしてもよりつらい日常になりかねない。どこかに安楽死を容認する思いがある。これは否定できない。といって、安っぽい正義感で、声高に批判だけをしてほしくない。そして、待ったなしの現状では、手をこまねいているわけにはいかないのだ。
 ありがたいことに、新しい医療と福祉に挑戦している地域がある。秋田・鷹巣町の「ケアタウンたかのす」、東京・小平市の「ケアタウン小平」で、共にデンマークの福祉をモデルにしている。コミュニティケアの誇り高い実践がはじめているのだ。もちろん容易な道ではない。何はともあれ,行って学ばねばなるまい。
 尊重してほしいのは、やはり個人の尊厳。半身マヒ状態であっても「セーキは自分で洗いますか」と心地よく声をかけてほしい。
 参照/「審問」辺見庸著。朝日新聞連載「山崎章郎の在宅医を生きる」

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