切っているのは斎藤美奈子。「ちくま」1月号で、「昭和一桁生まれのベストセラー作家に学ぶ」と題しているが、滅多切りで実に小気味いい。彼女は文芸評論家で、朝日の文芸時評も担当、「文章読本さん江」(ちくま文庫)で第1回小林秀雄賞も受賞している。
最初に血祭りに挙げたのが渡辺淳一。愛と性の伝道師と称され、この新年から日経新聞の私の履歴書でヰタ・セクスアリスを赤裸々に綴っている。79歳であるが、まだ捨て去ってはいない。最近地方紙に連載していた「愛ふたたび」は79歳の自らを語っている。不能になった老医師が3人の女性相手に何とかと意気込むが達せず、それは一応断念する。しかし、何度も繰り返すうちに不能でも女性を悦ばせ、愛は達せられるとの新境地に立つ。ところが、この連載は突然打ち切られてしまった。性描写について読者から抗議が殺到したのではないかと推察している。「化身」「失楽園」「愛の流刑地」と随分楽しませてもらったが、見たような、聞いたようなシーンがよくあった。斎藤は「先生、この話は前にも・・・」などと進言してはいけない、老いの芸といい、「鈍感力」にならい、反復力に過ぎないと切って捨てる。
次は曽野綾子。説教会の女王と呼ばれ、81歳だが依然保守論壇誌の中心にいる。曽野綾子本には独特のパターンがある。<前にエジプトで考古学の現場を訪ねて、日本食を作ってあげた時でした><インドの不可触民の村に教育関係者を連れていった時も>という具合に、あなたが知らない世界に私が行った時で始まる。貧困地帯の見聞録が出てきた後の展開はいつも同じで、こんな悲惨な土地にくらべたら、いまの日本は豊かだ、平和だ、貧困はない。人はどんな危機にも自己責任で備えるべきで、支援に頼るのは日本人の甘えだ、堕落だ、権利を教えて義務を教えてこなかった戦後教育の欠陥だ、と続く。世界中の弱者をダシに、足元の弱者を切る。曽野先生の元気の秘訣は、なんと言ってもその尊大力である。間違いない。
最後は五木寛之で、ラジオ深夜便の貴公子と呼ぶ。ピタリである。80歳で「下山の思想」を著し、山を下りたのかと思ったら「選ぶ力」で再び上へ戻ってきた。タイムリーな話題を適度にまぶしつつ、ときたま「どうだ」というフレーズを決めて見せるのが五木流。<私たち日本人は、いま、迷っている。国民だけではない。この国も、世界も、みんな迷いに迷っているのだ。あふれ返る情報の渦の中で、何を信じればいいのか、世の中どうなっていくのか。何が真実で、何が偽りなのか>と論はもっともらしくはじまる。が、問題はその後だ。<正論があり、反論があり、異論がある。それぞれに一理があって、聞いているあいだはなるほどと思う>。こんな感じで迷う話が延々と続き、<もっぱら野菜を食べろというのは、至極もっとも話である。しかし、最近では、高齢者ほどちゃんと肉を食え、という説も出てきた>といつしか健康方面にシフトして、方向性を見失う。それで<選ぶことも、選ばれることも、思うままにならない世の中なのだ>と誤魔化されてしまう。いわば、選ぶ力ではなく、脱線力でもっている。
昭和一桁はアラウンドエイティ、傘寿の周辺だからアラ傘ともいえるが、引退の気配は微塵もない。題材や論理に新鮮さはなく、内容的に学ぶところもあまりない。にもかかわらず、これらが書かれ、しかも確実に売れるのは、ひとえに著者のブランド力といえる。筆一本で地位と名誉と財産を築いてきた自負。本の内容なんかにこだわっている間は、まだまだヒヨッコなのだ。
ところで、黒田夏子の芥川賞作「abさんご」を買うべく、いそいそと本屋に出かけた。手にとって、横に組まれたひらがな文をしばし読んでいたのだが、数倍の時間がかかり、これこそ黒田夏子文学の真骨頂と頭では理解しているのだが、カウンターまで運ぶことはできなかった。敬愛してやまない75歳の黒田さん、申し訳ない。
作家3人を切る