60年安保世代逝く

 西部邁が1月21日多摩川に入水した。78歳の自死である。不思議な縁というべきか、たまたま佐野眞一の「唐牛伝」(小学館)を読んでいた。60年安保の全学連委員長・唐牛健太郎の足跡を辿るルポで、随所に西部が登場する。これを奇貨として、あの時代の青春群像を記憶に留めるのも悪くはない。

 戦後の左翼運動の曲がり角になったのが共産党第6回全国協議会(6全協)。武装路線から平和革命への転換で、特に若者が挫折に近い敗北感を抱え込んだ。砂川基地闘争を機に全学連は大きく分裂し、共産党系は反主流派となり、主流派はブント(共産主義者同盟)を結成し、60年安保を主導していく。この時無名であった北大出身の唐牛を委員長に担ぎ上げたのが島成郎である。明るさ、スケールの大きさ、そして何よりも学生運動ずれしていない、変な政治運動に染まっていない新鮮さ、それが君だ、と説得した。安保デモの最高潮は、機動隊の装甲車に飛び乗った唐牛が「国会に突入しよう」という一世一代のアジ演説が演出した。しかし安保法が自然成立すると潮が引くように沈静していく。

 ブントの闘士たちのその後である。庶子で母子家庭の唐牛はその孤独を押し隠すように無頼派を装いつつ、全国を放浪。居酒屋、漁師などだが酒好きもあり、どこに行っても好かれた。放蕩の末の直腸がんで47歳で亡くなった。一方の島は東大で医学部闘争を主導した。14年かけて卒業し、精神科医を選択し、沖縄に赴く。精神科専門医不在もあり、沖縄では私宅監置が容認され、放置されていた。著書「精神医療ひとつの試み」で世に問うた。心に不純なものがない人だから、とにかく颯爽していて「将たる器」というのが評。島も酒好きで、70歳で胃がんで逝く。ブントで財政を担った東原吉伸もスケールが大きい。逮捕者を救援するカンパは不可欠。戦前の共産党中央委員長を経験し、戦後転向した右翼の田中清玄に無心し、紹介された山口組一心会にも出入りした。その後の逃避行だが、南ア、マダガスカルで10年過ごしている。理論的に支え、全学連の頭脳といわれたのが青木昌彦。近代経済学に転じ、スタンフォード、ハーバード、京大で教鞭をとり、ノーベル経済学賞に最も近かった。桐島洋子と同棲もし、同じ活動家で中核派に転じた北小路敏から略奪した妻石田早苗はアメリカで感電死している。そして特筆しておきたいのは事務局長の生田浩二である。6全協の転換を最も深刻に受け止め、樺美智子の死に同志・樺よと呼びかけ、食うものも食わずブントに献身した。傷心を抱えてペンシルバニア大学に転じたが、66年現地のアパート火災で夫婦ともども焼死した。33歳であった。

 さて、自死した西部である。彼の著書「センチメンタルジャーニー」はこのブログで詳しく論じた。唐牛とは同じ北海道出身ということで、仲も良かったが喧嘩もよくしたらしい。ブントが解散となり、革協同入りを求められたがまっぴら御免と拒否した。唐牛も同席の酒席で、青木が経済学はどうか、と10冊ばかりの本を渡したのがきっかけ。パチンコ、ヒロポン中毒から抜け出して、経済学者の宇沢弘文に師事した。保守派としての活動は40歳を過ぎてからで、講演を頼んだことがある。意外とシャイな人だな、という記憶だが、奥さんを亡くした時に後追いも辞さないと応じていたので、胸に秘め続けていたのかもしれない。

 同じ日の訃報欄だが、仏料理の巨匠・Pボキューズが91歳で亡くなっている。銀座並木通りにあったレストラン「レンガ屋」を思い出した。なけなしのカネをはたいて食べたステーキ、スープ、そしてフランスパンの旨かったこと。わが青春の貴重な一コマである。

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