なかにし礼「生きるということ」

 アルマーニを着こなす。こんなことで遠ざけていたが、38年の満州生まれはやはり気になる。あいさつ代わりに手にしたのが「生きるということ」(毎日新聞出版)。なかにし礼が再発がんを辛うじてかわしながらの手記である。12年9月に食道がんを克服し「生きる力 心でがんに克つ」を書いたが、その2年半後食道付近のリンパ節に転移が見つかった。密集錯綜する患部なので手術は不可能となり、穿破(せんぱ)の危険が告知された。穿破は、がんが他臓器へ壁膜を食いちぎり食い破って侵入することで、ほぼ即死となる。ところが取り敢えず開胸した医師のとっさの判断で、がんの除去は難しいががんを気管方向に押し付けている静脈を切断し、圧迫を取り除き、穿破の可能性を低くする措置を行った。これが功を奏して、何とか命が保たれることになった。自分自身の生と死を凝視したなかにし礼は、同じ視線を日本という国の在りように向けた。

 やはりその生きざまに目が行く。作詞家へのきっかけは、20歳前後にお茶の水のシャンソン喫茶「ジロー」でドアボーイを始めたこと。仏語に興味があって通っていたアテネフランスでの基礎勉強が役立った。シャンソン歌手が「あんた訳詞やってみない」といわれて、やってみると面白かった。その歌手は「若くて、安くて、早くて、歌いやすい詩を書く人がいるよ」と広めてくれ、自給23円のドアボーイが、一曲千円で月に70曲ということもあって、立教大学を自力で卒業できた。石原裕次郎の出会いも転機となる。25歳で最初に結婚した時に、新婚旅行先の下田のホテルで声を掛けられた。「訳詞なんぞ、やめとけ。なんで日本の流行歌を書かないのよ。いつでも持って来いよ」となり、石原プロに自作の歌を持って行った。菅原洋一の「知りたくないの」を皮切りに仕事は引きも切らずに舞い込んだ。しかし、禍福はあざなえる縄の如し。兄貴の借財ざっと3億円がかぶさってきた。歌で返すしかないと必死になったのだから、今となっては悪い環境も書く動機になった。このいきさつを「兄弟」という小説にまとめることで、作詞家から小説家への転身ができた。この時に小説手法の参考にしたのはモームの「人間の絆」だという。そういえば筆者が大学入学後にとにかく読書だと手にしたのは、このモームだった。この彼我の差は大きいのだが、しょうがない。

 さて、国に在りようはこう語る。平和はエロチックであり、猥褻なんだ。国は個人のやることにはとやかく言ってくれるな。僕は徹底した個人主義と平和主義です。国家の役割は個人の自由と幸福を守ることであって、それ以外のことで口を出すのは越権行為だと思う。敗戦で迎えた満州で見たのは、全体主義と軍国主義によって引き起こされた戦争の悲惨さに巻き込まれ、個人がどれほど翻弄され犠牲を強いられたか。僕にはこの体験を語り継いでいく役割があるし、そのことが僕自身を作り上げてきた。

 そして彼は挙げる。日本文学の第1位は大岡昌平の「野火」、世界文学はガルシャ・マルケス「百年の孤独」、日本映画は「七人の侍」、欧米映画では「チャップリンの独裁者」、アジア映画では「さらば、わが愛 覇王別姫」。世代間のギャップを全く感じさせない。兄貴、やるね、と敬服するしかない相手である。遅まきながら、心して「赤い月」を紐解こうと思った。

 いざブログを書こうという時に、「志村けん、新型コロナで死亡」のニュースが飛び込んできた。松竹100周年の記念映画「キネマの神様」で山田洋次が主演を依頼していたのに、その落胆ぶりが眼に浮かぶ。氷見在住の友人・山口新輔が入院中の慰めにテレビを見たが、志村けんに大いに助けられたと聞き、演技の深さに遅まきながら気が付いた。そんなことを思い起こしている。

 

 

© 2020 ゆずりは通信