慶應義塾文学科教授・永井荷風

 慶應の仏文です、といえば誰もが一目置く。大学の公式案内は、フランス滞在を終えた永井荷風が慶應義塾に就任し、私たちの専攻が実質的に誕生したのは1910年のことでした、と誇らしく謳う。日和下駄に蝙蝠傘を杖代わりに浅草界隈を散策する爺さんが教授だったという意外性。集英社新書「慶應義塾文学科教授 永井荷風」を著した文芸評論家・末延芳晴は、その文学の本質を誰も穿つことはしていないと憤慨する。

 「武器を捨て、性によって男も女も愛し合え、人間よ」。永井荷風が遺したものはこれに尽きる。作品の奥深いところに秘められた「性」による国家の解体という思想。18歳の時に吉原の遊郭に登楼し、女遊びにも手を染めてから、アメリカで街娼婦イデス、遊郭の芸妓などと交情を深める中で、その思想は確信的なものになっていく。妻ヨネとの生活は半年足らずで破綻し、新橋の芸妓・八重次とも式を挙げるがこれもすぐに家出されて離婚、以後妻帯することはなかった。日記文学の傑作と呼ばれる「断腸亭日乗」が西暦で表示されているところに、その反骨と孤独を見て取りたい。

 そしてもうひとつのテーマは、人生100年時代と浮かれるな、という警鐘。59年、日記の最後に「四月廿九日。祭日。陰。」と記し、深夜、一人で絶息し、冥界へと旅立って逝った。齢八十歳にして、血反吐を吐き、ひとりのた打ち回ったのである。孤独な生との引き換えに「自由」であることを選び、「老残」をも受け入れた彼の生涯こそ、ひ弱に打ち震える団塊老人に突き付けている。76歳の著者・末延は訴える。「さあ、荷風に重ねて、老残何するものぞ。駆け抜けるのだ!」。

 荷風の人生は父・久一郎との葛藤を抜きに語れない。久一郎は71年(明治4年)に尾張藩の留学生としてアメリカに留学している。帰国してからは文部省、内務省で才腕を奮い、のちに日本郵船に転じた。そんな経歴からしても、荷風は当然同じエリートなるべく、一高、東大と強く望まれたが、それに応える気はさらさらなかった。歌舞伎、邦楽に親しみ、文学書を読み漁り、女にうつつを抜かし、父に逆らう放蕩息子を演じる。業を煮やした父は「アメリカに行ってビジネスを学んでこい!」と追放したが、荷風にとっては渡りに船。シアトルなどでフランス語など学び、ニューヨークでは横浜正金銀行の現地職員になるも、夜はオペラに心酔し、娼婦とも戯れる。長続きするわけもなく父の計らいで、同銀行のフランス・リヨン支店に転じた。実務能力もなく、やる気もないので、1年もたたず辞表を出すことになった。その退職金でパリに遊蕩し、詩人の上田敏と親交する。約5年の洋行を終えて帰国したのは30歳を迎えようとした時だった。「これから先、日本で何をするつもりだ」と問われ、「今さら、実業の世界で身を立てていく方途も立たないので小説を書き続けていくつもりだ」と答え、許されることになる。

 慶應招へいの申し出は、早稲田の文学科および「早稲田文学」に対抗し、これを凌駕するため森鴎外と上田敏の推薦を得て、文学部主任教授および創刊する「三田文学」の編集主幹を引き受けてほしいというもの。教壇に立った荷風は、文学だけにとどまらず音楽や絵画にわたる深い知識と教養、そして型にはまらない自由さ、常に学生の文学的創造力を引き出そうとする講義は、力強いオーラを発していた。久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大學などを輩出したのはその証明でもある。

 さて、荷風の遺体のそばにあったバッグには、土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産が入っていた。時価にすれば3億円ともいわれる。守銭奴・荷風の側面でもある。計算して死を迎えるわけにはいかないのだ、諸君。

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