「恐れられること」と「愛されること」、あなたにとってどちらがいいか。もしあなたが、愛され、尊敬される方を選ぶとしたら、権力者への道は遠い。イタリア・ルネッサンス期に登場した外交官マキャベリは著書「君主論」でいう。「人間は自分が恐れているものよりも愛されているものを害することをためらわない。人間の根性は悪であるから、自分の都合で愛するものを容易に裏切る。しかし処罰する権力のあるものを恐れ、裏切らない」つまり「人に愛されるよりは恐れられるほうが安全である」。
誰もがタテマエの民主主義を標榜しつつ、人間のホンネのマキャベリズムがうごめく現実で迷い、苦悶し、ついに折れていく。悪魔のように、鬼神のように、ひたすら権力を目指した男たち。瀬島龍三、渡邉恒雄、野中広務に切り込んで、困難な調査取材の末に、世に問う男が現れた。魚住昭。共同通信の敏腕記者であった。51年熊本生まれ、一橋大学法学部を出て、共同通信に入社し、司法記者クラブ等に在籍した。96年に退社、46歳の時だ。周りは心配した。この出版不況の時代に安定した記者の仕事を捨てるとは。どうもそれは杞憂に過ぎなかった。もし記者の立場であれば、これらの得がたい出版物は世には出ていなかっただろう。「沈黙のファイル」「渡邉恒雄 メディアと権力」「野中広務 差別と権力」。
まずはプロ野球を掻き回す渡邉恒雄はどうか。読売新聞の正力松太郎、務台光雄に続く社長の座を射るまで、マキャベリズムをそのままに実践したようだ。政治家大野伴睦に取り入り、中曽根康弘を薬籠中のものにしていく。読売本社が建つ国有地の払い下げ、中部読売の差別定価では公正取引委への介入など、この敏腕記者はひたすら権力者の方しか顔を向けていない。老いさらばえた権力者に棲みついた猜疑心を利用して手中にした権力。こんどはそれを玩ぶように「才能のある奴なんか邪魔だ。俺のとっちゃ、何でも俺のいうことを忠実に従う奴だけが優秀な社員だ」と公言してはばからない。その人心掌握術は「本人のいないところで、多人数を前に声高になじる。それがどのようなルートで本人に伝わり、そして本人がそれにどう反応するか観察し、それによって敵か味方かより分ける。公然と非難された当人は、速やかに陳謝に訪れ、他人の眼をはばかることなく平身低頭し、時に罵倒されることもいとわなければ合格。こうして渡邉の軍門に下れば、社内人事でも、退職後の再就職でも優遇される。その反面、絶対服従を強いられ、反論は許されない」。そういえば巨人軍の周囲にいる読売の人材の貧弱さは、こんなところに起因するのかと納得。
野中広務はどうか。加藤紘一の乱をこれでもかといわんばかりに圧倒し、鈴木宗男を自分の手先のように使い、自自連立では仇敵小沢一郎に土下座までする。その一方でハンセン病訴訟では国家責任を明らかにし、ハンセン病患者からは最も頼りにされた。弱者への限りなく優しい眼差し。この矛盾したようなエネルギーの根源にあったのが、部落出身ということだった。圧巻は、政界から引退を告げたあとの最後の自民党総務会の発言だ。麻生太郎に向かって「あなたは大勇会の席上で、『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、わたしは大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」。野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
小心で、全くエネルギー不足な男がマキャベリストを気取っている風景を見たことがある。何とも哀しい風景である。やりきれない思いがした。
若き諸君よ!君主論を読むことはない。「橋のない川」を読むのだ。心やさしきヒューマニストで何が悪い。格好をつけることはないのだぞ。
哀しきマキャベリスト