理由はあとで述べるが、ふと想い起こしたのが、三浦哲郎の「忍ぶ川」。「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝巻なんか着るよりずっとあたたかいんだよ」。志乃は、ながいことかかって着物をたたんだ。それから電灯をぱちんと消し、私の枕もとにしゃがんでおずおずいった。「あたしも、寝巻を着ちゃ、いけませんの?」「ああ、いけないさ、あんたも、もう雪国の人なんだから」。志乃はだまって、暗闇のなかに衣ずれの音をさせた。しばらくして、「ごめんなさい」ほの白い影がするりと私の横にすべりこんだ。この1節に胸をときめかせたのが、40余年前。いま若い女性の性行動は一変しているという。
なぜ「忍ぶ川」か、書評に騙されたのである。週刊「図書新聞」(2月2日号)トップが、“「ガラスの心臓」の少女たち”と見出しに続いて「セックスと空虚と人間関係―1980年代からいまを照らし出す」。読書人向けの硬派な信頼できる書評誌だ。富山県立図書館で気が向いた時に手に取っている。取り上げているのが「少女たちはなぜHを急ぐのか」の続編となる「少女たちの性はなぜ空虚になったのか」(NHK出版生活人新書)。1月20日東京・阿佐ヶ谷で、著者の「高崎真規子と愉快な仲間達」と銘うって、発刊記念トークイベントも開いている。「若手」と「お姉さま」に分かれ、楽しいバトルが展開されたという。なにしろテーマが、第1部がセックスについて、第2部が私たちを取り囲む空気について、ということだから、盛り上がるわけである。そこまでいうなら、買って読んでみようじゃないかとなり、高岡の喫茶店で珈琲を手に、読み飛ばした。結果は、こちらが虚しくなってしまった。何という薄っぺらな生に重ねられた性なのか。思わず、志乃の初夜が思い出されたのである。
期待する向きもあり、すこし紹介する。「やらはた」とは20歳で処女であること。これは恥ずかしいという感覚で、早くに喪失してしまおうというのである。「あげる」「捧げる」なんて完全な死語で、捨て去るといった方がいい。あふれる情報に、比較しようもないものが比較対象となり、不安と焦りが彼女達を駆り立てて、強迫観念とまでになっている。
性情報があふれ出てきたきっかけは、71年に創刊された女性週刊誌「微笑」である。結婚と性が切り離され、自らが性を楽しむ指南書としてヒットした。他誌がこぞって追随していった。行き着いた先が「モア」で80年の7月号。赤裸々な質問が続くアンケートに5770人が回答した。モア・リポートとなり、女の性の爆発といっていい。そして風潮は、自立した女性なら、セックスも主体的に、自分のものとして取り組むものとなっていった。80年代の結末である。
それが壊れていったのは、なぜか。伝言ダイヤル、ダイヤルQ2などのコミュニケーションツールの出現もあるが、希望なり夢が持てなくなっているのが一番大きい。希望がないから、きついことを嫌がり、汗を流したくない、傷つくことをとても恐れる、と連なっていく。そんな彼女らに、意味も価値も全く違うものになったセックスが否応なく目の前に現れ、そのセックスがむしろ逃げ込み先になり、繰り返されていく。
その空虚さに、彼女達も気付き始めている。大人である我々がいま一度、セックス、結婚、家庭を立ち止まって考えてみるべきだというのが、著者の結論である。
さて、三浦哲郎が「忍ぶ川」から30余年経て、93年に「夜の哀しみ」(新潮社・上下)を上梓している。一転して、自分の性に翻弄されながら次第に道を失っていく無垢な女性・登世だ。不条理といっていい、体内深く流れる性を哀しく刻みあげている。
孫娘を抱きながら、どんな「女の一生」が待ち受けているのか。ふと考える時がある。
空虚な性