広辞苑 第7版

 大廈(たいか)の顛(たお)れんとするは一木の支うる所にあらず 。大きな建造物が倒れようとしているのを、一本の木でもって支えることはできない。こんなことわざを思い出しつつ、岩波書店の広辞苑第7版の発売予告チラシを眺めている。「10年ぶりの大改訂。充実の最新版、満を持して登場!」。発売は来年(2018年)1月12日。6ヵ月での販売目標は20万部。出版界関係者は固唾を呑んで見守っているはずである。

 ここにいたる岩波書店の社内を想像してみる。初版発行が1955年、戦後10年過ぎて復興の足掛かりをようやく手にした大衆にとって、知的な欲求に応えるものだった。その後60余年間で6回版を重ねて、文字通り岩波の屋台骨を支えてきた。広辞苑だけで岩波はやっていける、という巷間の声でもあった。電子辞書に押される中での第6版は08年。確か「頗る」を大きく書いて、どう読むという挑戦的なキャッチフレーズ。駅のポスターを指さしながら、親が子に向かって話しかけている光景が散見された。あれから10年。辞書担当部と役員とのやりとりだが「とにかく、この節目で出しましょう。根強い広辞苑派は存在します」「辞書の売れ行きは想像以上に厳しいぞ。単に改訂時期が来ているだけでは済まない」。こんな繰り返しが続いたのではないだろうか。「ますます求められるたしかな言葉。人は言葉によって自分自身を知り、他者を知り、生きる勇気と誇りを手にすることが出来る。言葉は、人を自由にするのです」とあって、キャッチコピーが「ことばは、自由だ」。何となく苦衷が滲み出ているように感じるのは勘繰り過ぎだろうか。

 予約特典は、小説「舟を編む」で辞典の編集作業を描いた三浦しおんが、この広辞苑の製作現場を訪ね歩いたルポエッセイ小冊子をプレゼントするとなっている。6版よりも140ページ増やしたが、厚さは変わらない8センチ。手に吸い付くような、めくりやすい「ぬめり感」を保持したまま、更に紙の薄くして高度な印刷・製本技術で1冊にまとめた。芸術の域に達しているのかもしれない。普通版8,500円、机上版13,000円。ざっと総売り上げ20億円となるが、大廈を支える一木になってほしい。

 思えば、68年に岩波の入社試験を受けている。事前の書類審査がない公募で、門前払いの無い気安さから数人採用に2000人以上押しかけた。とにかく初任給が飛びぬけて高かった。高給に釣られたわけではなく、その前年だと思うが亡き岩崎勝海・岩波新書編集担当を訪ねて、出版にかける岩波の熱い思いを聞いていたので、入る確率はゼロであっても受けるだけでよしと考えたのであろう。今は、もし自分が広辞苑の責任者であったらどうするだろうか、という思いもある。この難局を何とかして抜け出してほしいと願いつつ、中学2年生の孫にお年玉代わりに買うつもりでいる。

 さて突然だが、モルドバ共和国をご存じだろうか。ルーマニアとウクライナに接する内陸国で人口355万の小国である。そのモルドバから富山大学工学部知能情報工学科の大学院に留学していて、そのまま富山に住まうことにしたグツ・ドリン社長に会った。社長というのは株式会社ヴィナリアを立ち上げ、モルドバワインの販売を行っているのだ。友人から勧められ、富山市布目にあるというので訪ねることにした。11月21日電話で確認しながら探し当て、新しい事務所兼住宅で向き合った。ヅドラストウィチェと久しぶりにロシア語のあいさつをすると笑顔で応えてくれた。まだ34歳、帰国しても仕事がないのである。91年のソ連邦解体で独立したが絶えずロシア、ルーマニア、トルコに翻弄され、鉱物資源もない農業国である。外貨を稼ぐワインが命綱だがロシアから禁輸措置を受け、混乱している中で日本でのビジネスを立ち上げた。向こう見ずのようだが、ここでやるしかないという覚悟と野心を垣間見た。これも成功を祈るしかない。

 

 

 

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