いまひとつの9.11

プンタアレナス。南米大陸チリの最南端の都市。1914年にパナマ運河が開通するまでは太平洋と大西洋を結ぶ港として栄えていたが、今はさびれ、氷河や南極観光ツアーの拠点として知られている。人口11万人だが、その7割はユーゴスラビア系の人たちだという。ユーゴスラビア王国が解体、連邦人民共和国となった成り行きの中で移住してきた人たちで、世界史激動の余波をその身に刻印している。雑誌「ひとりから」に「南米こころの細道」を連載する、女性史家・もろさわようこが、そのプンタアレナスに行き着いた。見かけたのは、インディオ的風貌を持った若い労働者風の若者たちが集会を開いている光景。軍政下においても労働者層の人たちが主体的に集会を持つ自由があることに感動したという。そして、そこに見出したのは若き日のサルバドル・アジェンデ。ともども一挙に30年前にタイムスリップしてしまった。
 73年9月11日、チリの首都サンチアゴ・大統領府モネダ宮殿。陸海空と警察の4軍による軍事クーデターが決行され、宮殿への空爆と戦車による砲撃が始まった。その直前に、アジェンデ大統領は、国民への最後のラジオ演説を行っている。「歴史の転換点にあって、私は人民の信頼に対し自分の命を捧げる。何万ものチリ人の胸に我々が蒔いた種は、必ずや芽吹くことだろう。敵の力は強大であり、我々を屈服させるだろう。しかし、社会の歩みを、犯罪や暴力で押し留めることはできない。歴史は我々のものであり、歴史は民衆が作るものである。やがて再び、大道が開かれ、自由になった人々が、よりよき社会の建設をめざして歩む日が来るであろう。チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!これは私の最後の言葉である。私の犠牲が決して無駄にならないことを確信している。少なくとも卑劣、不誠実、背信に懲罰を加えることが道徳的教訓となることを確信している」。と、格調高いメッセージを残し、最期まで側近とともに戦い倒れた。
 医師であり、社会運動家として頭角を現したアジェンデは、52年から社会党の大統領候補であった。70年、左翼7党が統一綱領を定め人民連合が誕生した。その統一候補となり、世界で初めて選挙で社会主義政権を誕生させた。しかし、そのあらゆる改革の前に立ちはだかったのが米国のニクソン政権。国際銅価格を暴落させ、チリ経済を混乱に陥れ、トラック業者にストを打たせ、社会不安を作り出し、最後には軍部にクーデターを起こさせた。その弾圧の凄まじいこと。臨時の強制収容所となった国立スタジアムに10万人を超える人々が集められ、水も食事も与えられず、約3万人が拷問の末に虐殺された。
 もうひとつの9.11は、アメリカこそ加害者であり、テロ犯罪国家であることを映し出している。60年、70年安保闘争で消耗し尽くした学生、知識人、労働者にとって、チリ・アジェンデの実験はまぶしく希望の星のように見えたものである。それが悲劇的な結末となり、国際社会の冷徹なエゴを見せ付け、甘い理想主義者に何ともいえないやり切れなさを残した。プンタアレナスの小さなホテルで、チリワインを飲みながら、海を見つめ、アジェンデを偲んでみる。わが老後ツアープランにまたひとつが加わった。
 かねて考えていた北海道への旅がようやく実現した。特養にひとり入居している義母への見舞いである。7月17日から20日にかけて、帯広、池田、足寄、札幌と回った。地域は一見して元気がなく、北の大地が誇り高く見えない。公共事業と農業振興補助金に依存しきった北海道経済をどうするのか、真剣に考えている奴がいるのか。広がるジャガイモ畑、小麦畑を見ながら、WTO(世界貿易機関)の新多角的通商交渉(新ラウンド)が待ったなしである。窮状を考えると、郵政民営化よりも優先させるべきだ、と思えてきた。
 国体の冬季大会はすべて北海道開催が持論だが、修学旅行は北の大地で酪農、営農体験を、父兄はその収穫物を購入すべし。そんな小手先で、解決しないのは百も承知だが。

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