信長

応仁の乱以降の戦国時代、その頃の日本人の勁さ、烈しさには恐るべきものがあった。例えば、桶狭間の戦いだ。清洲から熱田を経て桶狭間までの距離を、武装して徒歩で駆け抜け、そして数時間に及ぶ死に物狂いの合戦をする。その身体の頑健さ、みなぎる精力は、とても同じ民族とは思えない。その桶狭間を、単騎で駆け抜けた男と、その彼を必死で追いかけた3000人余の手勢が大きく歴史を動かした。それも独創にあふれ、善悪をも呑み込むエネルギーに満ち溢れていた。
 非情の天才、温情の凡愚。こんな分類もある。情に流されてばかりの凡愚老人は、曖昧模糊とした、ふんわり土壌に安住している。理非曲直もはっきりせず、ホンネもぶつけないが、恨みもいわない。気難しいが、さりとて対立を好むわけでもなく、それなりの旧来秩序をうけいれている。いつの間に、こんな生ぬるい、中途半端な老人が増えてきたのか。自らのことは棚に上げて嘆いている。こんな話を愚図愚図していても、埒が明かない。ここは鬱陶しい梅雨空を払うべく、非情なる天才・織田信長を話題としよう。
 16世紀の日本は史上稀に見る一個の天才を生んだ。織田信長がそれである。この人物以降、日本国はこれほど壮大な思想的スケールとエネルギーを持った天才を、一人といえども生んでいないとは私の持論である。これは小林秀雄もそうだが、その弟子でもある隆慶一郎の信長認識である。
信長を作り出したのは時代である。ただただ戦国の世を生き抜くために生まれ、生き切った。光秀の裏切りで殺されることも、当然の帰結と受け入れたに違いない。一瞬も気を抜くことのない緊張の日々、生の峻烈な響きが今にも聞こえそうな時代でもあった。
 歴史評論の面白さは、歴史書の行間にさまざまな想像力を働かせるところにある。信長の場合は太田牛一の「信長公記」と前野家文書「武功夜話」が中心となる。12年前、秋山駿が世に問うたのが「信長」。秋山に添う形で、天才性を追ってみたい。
 信長は自分ひとりで、あたかも原石を精錬するように、馬術、水練、弓鉄砲まで、あらゆる局面を想定し、自分で験している。それが16~17歳の時だ。複雑な織田家内部の権力掌握に没頭せねばならない意識というより、本能的なものとみる。容易に他人を信じない、他人に自分を預けない。いつも単身、先頭を切って新しい世界に突入し、そこに新しいものを生み出していく。長篠の合戦での新戦術、馬防柵、足軽勢、三段構えの鉄砲連射であるが、生涯120回の戦さをする信長にとっては、無限を目指す中での不断の革新のひとつに過ぎない。また秀吉の朝鮮征伐も、信長ではあり得ない。自分で眼にしない秀吉の臆病傲慢さがその悲劇をもたらした。
 天才の非情さを見せつけたのは、叡山焼き討ちと一向一揆への対処だ。叡山は旧秩序を代表し、一向宗は新秩序を代表する。武士という侍身分を確立し、もう逆戻りをさせないために、皆殺しという残忍非道に行き着く。助命の願いに「根切りニスベシ」と断固とした一言である。禍根を残さない根絶やしにする徹底さ、歴史を転換させるために不可欠とするその意志力、配下の将士が盲目的に従う権威。それらを「偉大さのダイナミズム」といっているが、信長の偉大さに託そうとするエネルギーの集積といっていいのかもしれない。革命とはそうしたものである。毛沢東の手法にも、似たものを感じ取れる。信長の持つ美学は、曖昧模糊を徹底して嫌う。そうした潔癖さも非情を支えるものになっている。
 秋山駿は「信長と日本人」でこんな指摘もしている。近代の戦争も日清、日露までは、信長のように必死に攻撃をおこなっている。これが中国戦線に伸びると、思いあがって、いい気になっている。秀吉の北条攻めに似て、緊張感を欠くと、勝った時に酷いことをしたりするもんだ、と。
 さて、このゆるい時代をつくりあげてきたわが世代よ。非情というのは無理でも、薄情くらいにはなれるだろう。命をやりとりする革命は到底無理だが、せめて政権交代ぐらいの冒険はしてみるべきだと思うがどうだろう。
 参照/「時代小説の愉しみ」隆慶一郎著。「信長」「信長と日本人」秋山駿著。

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