清沢満之100回忌。

参加者全員で勤行することでその会は始まった。三帰依、嘆仏、短念仏、廻向、拝読文「絶対他力の大道」と30分。一向一揆に立ち上がった民衆の高揚もそうなのかと思わせる空気である。6月29日土曜日の午後、中年リュック姿で出かけた。東京大学正門前の小路を入り、右に折れて50メートルのところにレンガ造りのその建物はあった。求道会館。50年振りの改装新築。教会の礼拝堂を思わせる作りでざっと120人。1階の席を埋めて、2階にも。清沢満之100回忌を記念した講演会である。ひとり異教徒が迷い込んだ気分で落ち着かなかったが、心満たされた。

明治の日本が生んだ天才宗教哲学者・清沢満之の生涯はこうだ。1863年尾張藩の士族の生まれ。15歳で真宗の得度を受ける。教団から東京大学へ留学を命じられ、西洋哲学を学ぶ。その頃の東大には、内村鑑三、矢内原忠雄などキリスト教派の論客もこれあり、東洋仏教哲学との論争が日夜繰り広げられたことは想像をまたない。全寮制の良さでもある。その対決の中で、法然、親鸞の思想こその思いに至ったのであろう。これまで危険思想と敬遠されていた歎異抄もこの時に封を開かせた。封建時代に忘れ去られた親鸞の思想をよみがえらせることで宗門改革を、と清沢を駆り立てたことは間違いない。その性急さもあり、時に追放を受けた。しかし失意の中でも、彼は禁欲、苦行を通し、道を求め続けた。この無理がたたり、31歳で結核を病む。その中で苦悩する私とは何者なのかを問いつづけ、到達したのが絶対他力。「自己とは、ほかでもない、絶対無限の妙用(すばらしいはからい)に乗託して(身をまかせて)、任運に法爾に(運にまかせてあるがままに)、この現在の境遇に落在する(身をおちつける)ことである」。

満之36歳の時、この求道会館の地で、真宗大学の学監に就任。同時に弟子たちもそこに集まり、雨戸もそろわないあばら家を「浩々洞」と称して共同生活を送り、機関紙「精神界」を発刊した。石川県松任出身の暁烏敏は、この浩々洞三羽烏といわれたひとり。松任にある明達寺には、眼光炯炯の清沢満之と僧衣をまとい端座合掌する暁烏敏の等身大の像がある。暁烏は清沢を敬愛して止まなかった。清沢は1903年40歳でその苛烈な生涯を閉じる。妻を亡くし、二人の男子を亡くすもその到達した思想の通り、絶対他力にまかせ動ずることはなかった。

さて出会いの不思議である。人生の救いとなった小説があるとすればこれを挙げる。「地獄一定すみかぞかし。小説 暁烏敏」。著者は石和鷹。刊行は1997年1月30日が初版。妻を亡くし呆けたような男がいつもの癖で書店をさまよっていると、まるで向こうの方から飛び込んできた。名前は聞いてはいたが、暁烏敏そして歎異抄との初めての出会いでもある。この怪僧は人間離れしたエネルギーの持ち主。「低下の愚者」と自称し、亡妻の骨のまつれる仏前で若い女と関係したとうわさされ、妻子ある身である彼に魅入られる女性は数多く、北陸電力の社長会長を務めた原谷敬吾氏の姉でもある原谷とよ子さんもそうだという。彼女は肺を病みながらのそうした境遇もあり、28歳の一期であった。毒をもって毒を制する歎異抄を、地で生きた。スキャンダルから異安心者として除名追放の危地に陥ることも。しかし彼の法話は聞くものを完全に魅了し、全国から依頼は殺到した。富山の高齢の真宗信者にも、敏の法話を聞いたという人は多い。読書研究意欲も並外れ、視力を失いながらも他人に読ませて耳で読んだ。その蔵書5万冊は金沢大学の暁烏文庫となっている。親鸞と蓮如、清沢と暁烏。思想家と戦略家の取り合わせで似ている。蓮如も5人の妻を娶り、27人の子女をなしている。27番目は蓮如84歳の時の子である。ふたりともうねりの様な情欲に悩まされ、絶対他力とうそぶいて逝った。あの世でこんな風に生きてみろと、呵呵大笑していることだろう。暁烏を知ってから清沢満之を何かの機会があればと思っていた。

というわけで、清沢満之講演会との数行記事に飛びついたのである。如来の存在に気づき、広やかな目覚めをせよ。そして自力を尽くせ、しかし結果は他力に任せよ。この境地なのだ。そして絶対無限のわれらに賦与せるものを楽しまんかな、である。いま法話をして魅了する僧は何人いるのだろうか。

わが友人に親鸞に魅せられて「親鸞考座」を開いた男がいる。その案内が今でも届く。富山市浜黒崎にある常楽寺。毎月第4水曜日(午後7時から9時半)に開催されている。

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