「戦争が廊下の奥に立つてゐた」

 新聞の俳壇、歌壇はウクライナで埋め尽くされそうになっている。非日常の戦争が、平穏な日常を圧倒しているようだ。平穏の享受がまるで罪のように、申し訳ない思いとなっている。ところで、この歌人や俳人たちは戦争のリアリズムの中で、どう抵抗していくのだろうか。もし権力がむき出しの暴力で襲いかかったらどうするのか。そんなことを思いながら、想像してみた。

 わが記憶を引っ張り出すとやはり「戦争が廊下の奥に立つてゐた」。渡邊白泉の俳句だが、いまをピタリといい当てている。40年、新興俳句系の俳誌の責任編集者となり、「京大俳句」を中心に起こった弾圧事件・新興俳句弾圧事件に連座し、執筆活動停止を命じられ起訴猶予となった。その後中学・高校の教員となり、俳壇とは関わっていなかった。ところが、69年に脳溢血で急逝したのだが、勤務先の高校のロッカーから自筆の句が多数発見され、門人の三橋敏雄らの手で「渡辺白泉句集」が刊行された。

 ついで、石川県出身で獄死した鶴彬(つる・あきら)の川柳「手と足をもいだ丸太にしてかへし」。今更ながらの惨状を映し出している。鶴は30年に金沢第7連隊に入営するが、連隊長の訓辞に疑問を抱いて質問し、重営倉に。その後「無産青年」なる発禁本を連隊内で配布し、軍法会議にかけられての収監生活。37年に治安維持法違反で特高に検挙され、38年に中野区野方拘置所で獄死している。

 さて、ウクライナ侵攻で危機を煽り立てて、核共有に始まり、防衛予算をGNP2%の倍増が当然のように語られるようになった。「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」。いわゆるショックドクトリンなる手法が臆面もなく出てきたということ。そして、この空気の中で参院選を迎えようとしている。改憲勢力が両院で3分の2を超えるかどうか。新聞の俳壇、歌壇、柳壇をにぎわす豊かな感受性と鋭い表現力を持つ諸兄諸姉は、どう捉えているのだろうか。非暴力不服従の現実はどうか。

 まず、日本にプーチンを生み出さないことだろう。プーチンの権力の源泉はKGB、つまり嗅ぎまわって相手の弱みを握る手法。こんな警備公安をとにかく引き付けておこうという体質を持っているといえば、アベクンに行きつく。批判されるのが大嫌いな男は、とにかく嗅ぎまわる警察官僚にアイツの弱みを探れとなる。前川喜平の出会い系バーの一件がすぐに思い出されるが、特定秘密保護法、共謀罪、重要土地規制法を手掛け、マイナンバー、デジタル庁、経済安保法と際限なく続いている。肥大した公安警察組織は権力者の庇護のもと、ヒトとカネを握り続ける。挙句が、隙あらば自らが権力の座に。それがプーチンである。エリツィンがそうであったように、アベやアソウを見ていると、こんなレベルなら自分もということになる。

 ウクライナを日本に置き換えたら、どうなる。ゼレンスキーは銃を取れ、闘えと鼓舞するが、「殺すな」が私の信条と拒否しなければならない。自衛のためのやむを得ない戦闘なのに、それもできないのか。卑怯者!の怒声に耐えなければならないのだ。

 ウクライナ侵攻は非暴力不服従とはどんなものか、そんな事態も想定しろと突き付けている。7月の参院選がその分岐点になるのでは、と懸念している。

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