伊藤熹朔

イトウキサクと呼ぶ。日本の舞台美術の先駆者だ。初めてこの名前を見たのは新宿・紀伊国屋4階で開催していた伊藤熹朔展であった。多分こまつ座公演を見たあとであろうか、10年は過ぎている。ふらりと入ったのだが、小さなスペースながら下町の民家の舞台がそこにあり、引き寄せられた。山本周五郎の「さぶ」なのかもしれないと思ったが定かではない。それ以来、伊藤熹朔の名前が刷り込まれた。そして巡り合った。俳優座劇場60周年を記念して出版された「伊藤熹朔 舞台美術の巨人」(NHK出版 2100円)。富山県立図書館の受付が「それなら、あります」と小走りで書架に向かい、手渡してくれた。思わず「ありがとう」という言葉が出ていた。うれしくて本の表紙をさすりながら、スキップを踏みそうな足取りだった。
 舞台装置ができるまでの経過だが、まず上演脚本が決まり、最も適した演出家と装置家が選ばれる。まず脚本の研究から始まり、何度も読み返してその内容、目的、形式、主要な演技についてはっきりしたものをつかむ。脚本に記載されている大道具、小道具、照明、衣装、かつら、メーキャップ等を整理して、一目瞭然になる図表をつくる。「この額の絵はモナリザです」「壁のしみは先日の雨でできたのです」というセリフもすべて記入してト書きで満たしていく。そこまで進んだところで、演出家との打ち合わせとなり、演出の目的、形式、テンポ、平面図などの方針が定まっていく。舞台装置設計はスケッチでなされる。熹朔は東京藝大美術を出ているがそんな才能が求められるからだ。
 それよりもやはり決め手になっているのが生い立ちである。建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫としている。兄道郎が演劇集団を創立した時に13歳で小道具をつくっている。舞台装置としてのデビューは築地小劇場の「ジュリアス・シーザー」である。それ以後は新劇、歌舞伎、新国劇、新派、商業演劇、オペラ、ミュージカル、人形芝居と果てしない数をデザインした。また、サインをせがまれると、千田是也と筆を流し、その下に「兄」と書くいたずらもしている。
 飯沢匡評がいい「装置家は現実家にならざるを得ない。経済的な予算や劇場の舞台条件や作品の上からくる舞台交換の時間的制約などが措置家をがんじがらめにする。それをいかに芸術と調和させるかによって、その人の腕が定まるのだ」。そして、久保田万太郎評だ「彼は仕事に関して一切不平をいわない。愚痴をこぼさない。どんな無理の前にも微笑を続ける。そして決してことさらな格好をつけない。われわれは作者として、演出者として、このような同時代の道連れをもつことを常に心から幸福を感じている」
 酒とタバコをこよなく愛して、68歳の1967年に亡くなっているが、これほど精力的に生きたのだから思い残すことはなかったろう。
 総選挙も終わり、老人に襲ってきた大きな試練も相手が腰砕けになり、とても空しい気分が続いている。久しぶりに三好達治の詩を口ずさんだ。「苦しい心は苦しいままに けれどもその心を今日は一たび寛(くつろ)ごう みんなで元気をとりもどして涙をぬぐって働こう」。

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