青春の牽引者

ひとりの文芸編集者から、青春の羅針盤を与えられてきた。1921年福岡県甘木市で生まれ、25歳から35年間、主に河出書房で活躍し、果敢に生きた。最後は経営に苦しむ河出書房の労組から旧幹部追放運動が起こり、辞している。その後「構想社」なる出版社を起こすが、やはり精彩を欠く。02年に80歳を超えて亡くなった。
 わが青春の日々は64年、新宿区柏木5丁目の四畳半一間の下宿から始まった。この年の芥川賞受賞作が「されど われらが日々」。柴田翔だ。柴田はその原稿を同人誌仲間に託してゲーテ研究のためにドイツ留学に出かけている。フランクフルトでその受賞の知らせを聞いたという冷めた男だ。宇宙の始まりから大きな命の流れがあって、人間も歴史も、その命の表れにすぎないという達観ゲーテ主義が一貫している。これに加えて「憂鬱なる党派」の高橋和己、更に「光る聲」の真継伸彦。この3冊がわが青春小説であり、わが青春の扉を開けてくれた。晩熟の田舎学生にとって、驚きとため息の出るものであった。政治、文学、恋と性、ギャンブル、交友などなどで突きつけられ、打ちのめされる日々でもあった。そのレベルに達したいものと必死?に努力をしたのである。
 この3人の作家を見出し、励まし、比類なき新人錬成の鬼となったのがその人・坂本一亀である。「彼はたえず無名の人の中に可能性を探ろうとする努力を続けていた編集者であった」。既存の流行作家を追いかけることを嫌い、他の編集者が注目しないような目立たない執筆者に注目し、激励したのである。寸暇を惜しんで同人誌にも眼を通し、雑誌「文藝」の編集長時代には、作家の卵たちを集めて、毎月文藝新人の会を開いていた。そこで刺激しあい、競い合った。駆り立てたのは戦争体験。かなりの軍国少年であったらしい。日本の軍隊機構が人間性を奪い尽くしていく兵営の真空状態を描いた野間宏の「真空地帯」は、若き編集者坂本の執念が生ましめた傑作である。野間32歳、坂本25歳であった。
 何あろう「ラストエンペラー」「戦場のメリークリスマス」の坂本龍一は彼の息子である。龍一は、一亀の部下として仕えてきた田邊園子に、父の生きているうちに父のことを書いて本にしてほしいと依頼したのである。「坂本一亀とその時代」作品社。一亀は一応、生前にこの原稿を読んでいるが、「出版ハ、自分ガ死ンデカラニシテクダサイ。オ願イシマス。」と白髪の頭を下げている。子息・龍一は父を心から誇らしく思っている。ジャンルは違うが、手法はなかなかに似ているらしい。
 こんなことを思ったのも、久しぶりに柴田翔がエッセイ集「記憶の街角 遇った人々」出したからだ。懐かしくなって、手垢のついた「されどー」を探したがみつからず、文庫を買い求めた。赤線を引いた箇所がすぐにみつかった。「春も、もう終りに近い五月の末のある夜、あなたの部屋の布団の中にだるい体を横たえながら、もう起きて、身づくろいをしなければと考えていました。でも、そうした時間のあとで下着を身につけるという行為は、いつになっても、少し恥ずかしいことでした」。どういうわけかこの部分が気になって仕方がなかった。そういえば六全協も。日本共産党第6回全国協議会のことで、それまでの左翼冒険主義を批判し、軍事方針を放棄したもの。多くの若者が大きな挫折感をあじわい、この小説では自殺をしている。
 さて、イラク人質事件で自己責任論が噴出している。国家の許容範囲内での平和活動、ジャーナリストだらけになったら、どんな世界になるのか想像したことがあるのだろうか。「1931年の満州事件の時に、朝日新聞が最後に足並みをそろえて軍支持に転向し、戦争支持、翼賛体制が出来上がった、今がその1931年の少し前くらいかなという気がする」というのは元共同通信の原寿雄。ごまかされてはいけない。
 そして、最近一番気がかりなのが老犬コロ。ターミナルケアだと思って、エサも従来の三倍のものに切り替え、牛乳も少しだが欠かさず、散歩もゆっくり心臓に負担をかけないようにと気を配っている。

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