ヒトラー、最期の12日間

ヒトラーほどその人間研究において興味をそそられる人間はいない。彼の女性秘書ユンゲは02年まで生きていた。秘書採用試験でパンチミスをしてしまうが、ヒトラーはにっこりと笑い返し、私もよくミスをやるんだとやさしい声でささやく。まるで小市民の好々爺でさえある。「怪物の正体を知らなかった自分を今も許せない」「若さが無知の言い訳にはならない」と自己批判する彼女の回顧録と、ドイツ人歴史家ヨアヒム・フェストの「ヒトラーの地下要塞における第三帝国最期の日々」をもとに映画化された。「ヒトラー、最期の12日間」。ヒトラー演じるブルーノ・ガンツの演技がいい。
 11日、高岡ピカデリーヘ。両親をショートステイ先に預けた後、滑り込んだ。60歳以上、1000円の表示。何となく悔しい。200円得だが、要らぬおせっかい。もっといい映画を見せるなど再生産にまわせないのか、とぶつぶつ。いま自戒の言は、60歳からこそ人生意気。そうでなければ、これまでのやせ我慢が無に帰す破目になってしまう。そう言い聞かせているのだが。
 映画は採用試験から始まる。ユングの採用から2年半が過ぎた45年4月20日。ヒトラーはごく限られた身内と側近らと、ベルリンの首相官邸地下にある堅牢な要塞に立てこもる。56歳だが、パーキンソン病に冒され、背中にまわした手を震わせる姿は気の弱い老人といっていい。ドイツの敗勢が避けがたい状況の中で、ユンゲはヒトラーを取りまく人間達の“歴史の証人”となった。といってもヒトラーを尊敬もし、やさしささえ感じる心もとない証人である。イスラエルの新聞が「ドイツはユダヤ人虐殺の歴史を取り繕い美化している」と批評するのも肯ける。特に宣伝省のゲッペルスが、夫婦と子供6人でヒトラーに殉じて逝くシーンはむしろ英雄的でさえある。
 ベルリン市街地を最後の防衛線にする作戦にヒトラーは言い放つ。「これは市民が選択したことだ。例えどんな犠牲があろうと、同情や哀れみは禁物である」「弱い者は滅びるがいい。この世で意味のあるのは強者だけだ。弱いドイツ国民も滅ぶがいい」。考えてみればナチスはドイツ国民によって選ばれた合法政党なのである。そして、ふと・・・。
 「小さな政府を選んだのは国民である」。どんなに低所得者に悲惨が訪れようと、政策の選択をしたのは日本国民なのだ。そんな声にダブって聞こえてきた。地下要塞で結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンはユングにこう述懐する。「あの人のことは何にも知らないのよ。何も話していないの」。某首相の元妻も、同様のことをいっているのかもしれない。
 そして映画からもうひとつ。ヒトラーに一度忠誠を誓ったから、もう裏切れないという心理だ。金縛り、マインドコントロールにかかってしまっている。秘密警察が、若いゲシュタボが、陥落寸前のベルリンで赤狩り(ソ連通謀者)と称して市民を銃殺している。これも悲惨だ。これまでの人生を無に帰さない為に、人生意気とこだわっているのも同類かもしれない。
 繰り言めくが、真夏の解散から幕を開けた狂騒の政局は、ますます狂躁の度合いを深めている。少数意見の抹殺、解散の正当性、国民投票のような郵政民営化のみを問う選挙、刺客の騒ぎ様などなど。これを「保守革命」という政治学者もいる。惑わされてはいけない。「除名」と聞いたときに、自民党が共産党になったのか、と思ったほどだ。これらは権力の濫用、恣意に他ならない。この風潮が自民党から、企業に、社会に、当たり前の如くなっていけば、どんなに息苦しくなることか。
 熱狂が最もよくない。「昭和史」の半藤一利さんの言だが、人生意気などとんでもない、冷静に冷静に。働けど働けど暮らし楽にならざりじっと手を見る。でも、それで終わっては駄目。杉村大蔵議員の背後にあるものを見抜くようにしよう。国会中継で答弁に立つ小泉首相を見て、卑屈にうなづく竹中大臣の表情をみるのだ。

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