林竹二、絶望を突き抜けて

こんな雰囲気が好きなのであろう。8月4日JR浦和駅前にある埼玉会館。林竹二記録映画全作品の上映会。主催するのは関東・授業を考える会。顔見知りは誰もいない。Tシャツに短パン、机の上に資料とペットボトル、足元にリュック。すっかり中年風来坊。林竹二が逝って17年。それでも教育の再生を求めて粘り強い活動が続けられている。授業記録「開国」「田中正造最後の戦い」「人間について」などなど。10時から20時30分まで会議室を2つ借り切ってのもの。ざっと150人の参加であろうか。参加費は2000円。教師とおぼしき人が多いように見受ける。

林竹二(1906―1985)。哲学者であり、敬虔なクリスチャンであり、東北大学教授。昭和44年から宮城教育大学学長を務めている。宮城教育大学はその設立から問題を含んでいた。昭和41年東北大学教育学部から分離独立。教員養成を一段低いものにみている旧帝大で、その養成部門をもっていたのが東北大学だけ。そんな事情もあり分離独立は揉めに揉めた。加えて大学闘争の真っ最中、宮城教育大学も二度の封鎖を行っている。しかし林竹二学長は機動隊を絶対にいれないという固い信念。自ら団交に臨み、自主封鎖解除が行われた唯一の大学。そんな彼が教え子に請われて「授業」をやった。小学生の感想文「僕は林先生のことを忘れるかもしれないけど、先生は僕らのことを一生忘れないと思います」。最初に見たビデオが水上勉との対談。うれしそうにその作文用紙を持ち出している。この二人は戦後日本の教育の変質過程に絶望し、その哀しさに本当に涙する。林竹二のそれは特に痛々しい。私に出来ることは1ミリでも自分の信じることを進めること、即ちこの「授業」を全身全霊でやることだけ。この一粒の麦がこうして広がっている。

確認しておこう。敗戦後の解放は反ファシズムでの占領行政がもたらしたもの。平和憲法もこの流れ。しかし1950年の朝鮮戦争の勃発は反コミュニズムへの転換を否応なく強制した。再軍備でその防波堤へというわけである。もともと文部省は本気ではなかった。また民主主義の主体的な力量が社会に根付いていたわけではないがら、反転攻勢は赤子の手をひねるようなもの。すべての意味で、戦後史の大きな分岐点であったことを忘れてはならない。

沖縄・久茂地小学校での授業「開国」。ペリーの来航は沖縄から始まっている。ペリーの構想では小笠原と沖縄を占領し、台湾をアメリカと清国との共同管理化に置くというもの。そして1853年から1854年にかけて米国東洋艦隊の基地になっていた。この事実から説き起こし、1945年の沖縄戦の悲劇と戦後の基地化を、授業で小学生に教えるのである。小学生は食いついてくる。成績は関係ない。出来る子出来ない子も、偏差値も、彼の授業の前では消えていく。絶えず深く考えさせていく。授業する林の表情もいい。神戸の定時制の湊川高校での授業「ソクラテス」。部落や在日韓国の足でまといにされ、切り捨てられた子らの眼が輝きだす。東北大学と同じ内容。こんな授業があるのである。借り物の知識が通用しない、させない授業だ。

どこかの進学校。予習をしてきた自信のある奴は前に、あとは後だ。後がちょっと騒ぐと出て行け。成績はトップからビリまで廊下に張り出される。トップの生徒は採点がおかしいと職員室に駆け込む。先生は権力者気取り。

日本の学校教育は、無数の子どもを切り捨てているだけではない。その切り捨ての上に成り立っている。その体制の中では、子どもの持つ個性や能力をかけがえのないものとして尊重することを許さない。性急さ、偏狭さが組織を覆いつくしている。これを誰も否定できない現実であろう。

そして今また愛媛県で、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が公立中学校で初めて採択された。しかも8月15日に。これでは教育勅語を持ち出されても違和感がなく今の教育現場に馴染んでしまうのではないだろうか。愛媛の教師は勤評闘争で現場が窒息させられ、いままた完膚なきまでになるのであろうか。

学校現場には自由の空気がいっそう薄くなり、一段と重苦しい空気がたちこめている。教育委員会の忠実な僕となった校長の強権発動、すぐに職務命令だと恫喝する職場の雰囲気。こんな状況下で、子供たちが眼を輝かせ、生き生きとした学校生活が過ごせるとは到底思えない。ことし教職を退職した男の回想である。

林竹二はいう。親が変わるのが先決。自分が変われないで、子どもが変われるわけがない。「教育亡国」(ちくま学芸文庫)をぜひ。

ところで愚息3人の親たる男は変わったのか。他人にばかり言っている人が、自分のところは別と学歴尊重、特権公務員を目指しているのよね。だまされないわ。耳が痛いね

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