伏木・没落旧家

「藤井能三 借財のこと」。数年前、金沢市の玉川図書館で北國銀行社史を眺めていて、この1行が記憶の襞にこびりついている。ご存じ藤井能三は、明治初期に高岡市伏木の廻船問屋「能登屋」を率い、仕事だけでなく公共事業にも私財を投げ打ち、築港、鉄道、教育などなど近代化の基礎作りをやった立志伝中の人だ。しかし、大型蒸気船導入で無理な投資がたたり、経済不況とも重なって倒産してしまう。社史に固有名詞を取ってまで、あげつらうことか、とこの銀行のせこさに憤慨したものである。
 伏木は懐かしい町である。小学生時代の遠足が勝興寺、夏の盛りには八伏山にあけび採りに出かけていた。何よりも亡妻が十間道路沿いの明治にできたような洋館に下宿していたのである。大阪外語のロシア語科を出た後、伏木海陸運輸で貿易関連の仕事をしていた。この通りを走ると、何となく込み上げてくる。
 さて、伏木のいまひとつの廻船問屋“鶴屋”。ここもまた破綻するのだが、これが前回「じゃあな」で取り上げた堀田善衛の生家である。取り出した「若き日の詩人たちの肖像」は初版で、68年10月27日清明堂にて求むとあり、750円。ぱらぱらとめくるつもりが、読み切ってしまった。彼のほとんどの作品は、「若き日・・」で自伝的に綴った、つまり戦前の学生時代の交友関係から生まれていることがよくわかる。
 没落旧家という、そこでしか身に付かない素養が、無意識に作品を奏でていくという感じである。廻船問屋にはいろんな人間が出入りをする。俳人、画家、能役者、政治家などが入れ替わり立ち替わりで、自ずとそうした芸能にも目を開かれ、琴や三味線も習っていたりする。書画骨董にも自然と通じていくということも。また、没落という経験が無常観という感覚にもつながっていく。
 本来なら高岡中学に入るはずが、石川啄木の盛岡中学、高知中学と並ぶ三大ストライキ学校ということで、金沢第2中学校に行かされる。最初の下宿が親戚で、楽器店をやっていた。そこでピアノを習ったり、クラシック音楽に親しんだりしている。楽譜で音楽が楽しめるレベルである。次なる下宿がアメリカ人牧師の家。この家に帰ると、いっさい日本語が使えず、すべて英語ということで、金沢時代に音楽と英語を徹底的に叩き込まれた。
 そして、これが大事だ。父のなじみの芸者に誘われて、性の手ほどきも早々に受けている。男女のそれも、おおらかさが漂うということになる。この差し迫らないおおらかさが、どれほど豊かな性を享受するかだ。新宿「ナルシス」のマドンナ嬢との交友も、きれいである。マドンナ嬢はその左翼運動から、官憲に想像を絶する性的な虐待を受けている。連れ合いの画家も、拷問から精神的に立ち上がれず、沖縄に逃げ出している。そんな彼女の家での絡み合いだが、トラウマから抜け出せない彼女への処し方も落ち着いたものだ。男だけに限らないと思うが、おおらかさをいつ身につけるか、だ。
 慶応大学法学部に入るのだが、仏文に転科をするのも当然の成り行きといえる。文学部には3つのタイプがあり、没落旧家、金持ちのグータラ、スポーツ選手だという。42年の仮卒業だが、国際文化振興会という得体の知れないところに就職する。戦時中だというが、まるでエアポケットみたいなところで、知識人の吹き溜まりでもあり、とにかく暇だった。後の「西行論」「方丈記私記」「定家明月記私抄」はこの時に背負い込んだものであり、「ゴヤ」は戦時中に“戦争の惨禍”という版画集を見たことにはじまっている。
 彼もすんでのところで、横浜事件に巻き込まれそうになっている。検挙されて獄死した中央公論の和田喜太郎からマルキシズムの手ほどきをうけ、レーニンにゆきつき、レーニン全集を床下の根太にしばりつけており、しばしばそこから引っ張り出して読んでいたのである。横浜事件はこの3月に免訴として、司法責任を回避したが、堀田が生きておれば、法廷に立ってきちんと証言していたかもしれない。

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