教育の再生、林竹二

 「教育が成立するためには、教師が本当に子どもを受け入れると同時に、子どもたちが教師を受け入れなければならない。そのためには教師というものは根本から自分を作り変える必要がある。権力で動かすという意思を捨て去って、本当に子どもの中から、最も深いところのしまい込まれているものを探し出す。それが教師の仕事です」。

 5月20日、前川喜平・元文部事務次官を富山駅で出迎え、講演会場の小杉ラポールまでの時間を一緒した。さりげなく宮城教育大学の学長を務めた林竹二に話題を振ると、実は宮城県教委に出向していた時に、反権威的な気風が色濃く残っていて、文部省的にはやりにくい大学とうつっていました、教育が強権支配に傾いていく時期に得難い人でしたね、と返ってきた。意気投合したような気分で冒頭の林竹二の思いを書き留めた。講演会は定員800名に立ち見が出る超盛況となったが、加計問題で官邸権力に屈しない姿勢に共鳴する人々である。講演要旨は、学ぶことによってしか個人の尊厳は獲得できないと訴えるもので、この機会に林竹二の実践から、いま一度教育とは何かを考えたい。もう手遅れ、時代錯誤という批判には耳を貸さない。

 林竹二(1906―1985)は哲学者で、敬虔なクリスチャン。宮城教育大学学長を務めたが、その開設には反対であった。東北大学教育学部からの分離独立だが、旧帝大で教員養成部門を持っていたのが東北大だけで、教員養成を一段低いものにみる権威主義に迎合するとみたからだ。開学当初から大学闘争が吹き荒れて、同大も二度の封鎖を行っている。しかし林学長は機動隊を絶対にいれないと自ら団交に臨み、自主封鎖解除が行われた唯一の大学となった。

 それはともかく、自身が教壇に立って授業をやっている。その教室では、小2の子供が、定時制の高校生がみるみる引き込まれ、自分で自分を追いつめるように顔の表情が変わっていく。ソクラテスとガリレオを挙げながら、こう話していく。キリスト教では天が動くとしている。法王はガリレオを呼び出し、お前は地が動くとあくまでも主張するのかと問う。自説を主張すれば殺されると察し、間違っていましたと釈明し、「それでもやっぱり地球は動いている」と陰でうそぶく。次に呼び出されたソクラテスは地動説の主張を曲げないので、死刑となる。その違いは何だ、と生徒たちに考えさせる。知を愛する哲学とは何か、死を恐れない覚悟で信じたものに殉じることで、人間は自分の生き方を自分で選べるのだ。それはうまい授業でも、見事な計算し尽くされた授業でもない。生徒の奥深いところに届いているかどうか、だ。この授業を見たひとりの教師は、これは林が東北大の最終講義で数十年の研究の到達点として語ったものとほとんど同じ内容ではないかと驚く。しかもこの授業を聞く生徒たちの集中度に更に驚く。そうしてこう述懐する。この生徒たちは何のために学ぶのか知っていたというよりも、人間として生きるためにそのことを求め続けていたのだ。

 02年に浦和で行われた「林竹二記録映画全作品の上映会」に参加したのだが、好々爺が定時制の生徒たちに話しかけている。部落、在日、母子家庭などすべての差別を担って、喘ぎ苦しみ、荒れた生徒の表情が瞬時に変化し、緩慢にその意味を反芻していく。ぜひ見てほしいので、機会を作ってみたい。

 思えば、前川元事務次官が手伝う夜間中学も、すべての人に学ぶ権利があるとする憲法はこうした実践で確保されていく。そして、自民党文教族に脅され、教育現場をゆがめるだけなら、文部省はいらない。 

 最後にもうひとつ。前川講演で指摘したことことだが、アベ政権が警察司法権力をも私物化し,ゆがめた伊藤詩織問題こそ、糺していかなければならない。放置すれば大きな禍根を残すことになる。

  参照/「授業による救い 南葛飾高校で起こったこと」(径書房 こみちしょぼう 93年刊)

 

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