ガラスの墓標

10年以上も前のことである。看護の日(5月12日・ナイチンゲール生誕の日)というのがあって、その日を記念して毎年講演会を開催していた。その頃講師選定がわが仕事であった。芥川賞作家でもあり、少女時代を高岡で過ごしたこともある木崎さと子さんに絞ることにした。ちょうど生命科学者・中村桂子さんとの往復書簡集「いのちの海」が出たこともあって、最適と思い定めた。ところが、電話で依頼をしたがなかなか埒があかず、押しかけることにした。木崎さんの自宅が近いこともあり、あなたでもすぐにわかるところということで、待ち合わせが東京代々木のNHK。なかなか頷いてもらえず、何とか拝み倒して、やっとの思いで承諾をもらったのを記憶している。講演会場は富山駅前のCiC(シック)のホール。これが巡り合わせの発端である。不思議というしかない。

講演終了後に、「木崎さんにお会いしたい」という青年がやってきた。帰りの飛行機まで時間があるからと、寿司栄で軽く食事をすることにしていたので「君も一緒にどうか」と誘った。一緒に車に乗らないかといったら、ちょっと遅れるが自分で行くという。自転車で追いかけてきたのである。もちろん、彼がガラスをやっているなんてつゆ知らない。その頃の彼は、木崎さんの小説をイメージして製作をしていたのである。木崎邸に彼の作品が並んでもいて、話が弾んだ。

さて、不思議第2弾。長男が高校3年の12月、夏休みあたりから変だと思っていたらしいが、受験を目の前にしてしきりにお腹が痛いという。親友の医師・古屋君に早速診てもらったところ、ひどい腹膜炎だというではないか。早速医師二人がかりの手術をして、お腹いっぱいの膿みを取り出してくれて事なきを得た。その時看護婦として、長男の剃毛から世話になったのが彼の奥さんであった。

更に不思議第3弾。わが亡き妻がこの頃ガラスのトンボ玉に夢中になっていた。わが書斎は完全に彼女のものになり、家事が終わり、亭主が酔いつぶれているのを傍目にひたすら没頭の毎日。そのトンボ玉の先生こそ彼だったのである。

はたまた第4弾。これらの不思議が氷解したのは、わが三男の五福少年サッカークラブでの試合観戦の時。彼の長男が同じクラブにはいっていた。双方夫婦で初めて会ったのである。「あ、あの時の、あの時の」となった次第である。

彼は1955年の徳島の生まれ。徳島大学工学部に進むも何かしら物足らなかったのであろう。瀬戸内寂聴が出身ということもあり、徳島市で私塾「寂聴塾」を開いたがその一期生となった。寂聴の勧めもありガラスを志し、東京ガラス工芸研究所にはいる。もちろん個展などの推薦文は寂聴さんが寄稿する。そして縁あって、ガラスで街づくりを志向しはじめた富山へ。富山ガラス造形研究所教授の野田雄一さんとの、本当に信じられない不思議な出逢いである。

正月はわが家にとっては、服喪の月でもある。1997.1.7から2004.1.7へ。7回目の妻の命日である。ハドソン川の散骨ですべてを流したわけではなく、いくらか残った遺骨を小さな骨壷に入れて床の間に置いていた。墓無用とはいえ、何とも無粋で、何とかしなければと思いあぐねていた。そして、ある時思い立ったのが、野田さんのガラスの中で、ゆっくりくつろがせようということ。思い立つと、いても立ってもおられず、酒席に誘い出してお願いした。それが8月。僕でよければ、と快諾してもらった。1月6日夕刻、やっと間に合ったと自ら届けてもらう。

銘は「天空」。高さ35センチ、直径10センチの円筒形。透明なガラスの中に、生命の悠久の卵、願いの合掌の手、浮遊する命、そして蓮の花が調和して、4ワットの発光ダイオード(LED)に照らし出されている。頭頂に小さな筒があって、その中に遺骨が収まるようになっている。近い将来わが遺骨もそこに入る予定である。

これにて一件落着。ようやく落ち着けるようになった。そして、これを新案特許?に申請するつもりである。富士山や立山を眺望できる見晴らしのいいところに、他人を押しのけて自分だけの景観を確保する墓石はいらない。スモール&ピュアなメモリアル・グラス。うーん、なかなかにいいのではないか。品性と環境を大事にされる方はぜひご注文をいただきたい。

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