茶会

「あの坊主奴に腹を切らせろ」。ついに秀吉は利休に切腹を申し渡した。成り上がりの秀吉と侘び茶を完成させた利休。この二人の心理を余すところなく書き綴ったのが野上弥生子の名著「秀吉と利休」。ひょんなことから、再び目を通すことになった。

伏見区桃山。京都のどのあたりなのか見当もつかないが、タクシーで15分。閑静な住宅街の奥まった角の家であった。玄関上に祇園祭の長刀鉾をかたどった魔除けがあり、その下に「如是庵」の小さな表札が掛けられている。玄関に立った時、ツツと引き戸が数センチ開かれた。人の気配が微かにするのだが黒子のように見えない。ここは案内を請うことなくにて身支
度を整え、われら10人それぞれに記帳を済ませる。緊張をほぐすように、また心構えを期するように軸に見入る。秋風云々まで読めるがあ
とは不能。ひと段落したところで、に揃えられた草履に履き替えて、路地に降りて腰掛待合に。路地には行灯が2つばかり配されて、そこはかとない情緒を醸し出している。やがて亭主である筒井如是庵氏がにじり口より出てき
て、の水を打ち払い、手桶の新しい水を蹲踞に張る。軽く挨拶を交わして亭主が戻ったあとに、正客から手水を使い、にじり口より身をかがめて茶室に入る。

夕闇の中の茶室。軸は後水尾天皇の次男のもの。月明かりが少し引いた障子戸からはいり、おぼろげに見える。判じかねていると亭主が手燭を掲げながら、字句を読み解いてくれる。目を落とすと、大振りの水差しがいい。美濃伊賀で、釉薬が一筋こぼれるようにしたたっている。床にあった長茶入れは織部。鈍い緑と黄に月の明かりがしみいるようだ。

10月24日、かねてお願いをしていた夜咄茶事が実現した。時計も携帯も身に付けずに出かけることに決めていた。4時間、世俗からすべてを遮断してしまう気構えでもある。

秀吉と利休に思いを馳せる。すべての権力を手にした天下人と、侘び数寄の求道者。切腹さらし首にいたるきっかけとされる利休の不用意な一言。「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」。朝鮮出兵に狂奔する秀吉の最も触れてはならぬものに触れた。そこを側近であるライバルの石田三成に衝かれる。

この主従の心理戦もまたそそられる。権力者は気が小さく、時に弱気に襲われる。そもそも権力者といっても、特段非凡なる者がなるのではなく、偶然や歴史の悪戯からごく普通の者が手に入れるに過ぎない。手中にした時から、非凡を演じなければならない。そこに悲喜劇が起こるのである。
利休の最初のお咎めは、堺での蟄居。秀吉は、利休がひれ伏して命乞いに及べばとも思っている。三成は秀吉の気弱さを、口にこそ出さないが態度の端々であてつけてくる。側近の眼というのも、成り上がりであればあるほど気になるものらしい。「さすがに上様なればこその御裁断と、三成もこれにて安堵いたしました」「ふん、そちもおれをめていたのだからな」。切
腹を申し渡した後のこんな遣り取りは想像できるというもの。

一方、利休にも矛盾がある。権力者に奉仕する侘び茶とは何か。世辞をいい、庇護を受け、屈服した侘び茶というものが存在するのか。こんな苦悶も成る程とうなずける。世渡りということであれば、詫びを入れ命乞いをして、今まで以上に成り上がりを飼いならして、そんな表の顔とは別に茶道を究めていけば、との思いも否定はできない。そう考えてくると、単純に秀吉に対する反抗や怒りとは別の、自らの矛盾をどうすることも出来ない利休自身に対する怒りが切腹というものを受け入れていったのではないか。そんな気がしてならない。

さて茶会はいよいよ佳境を迎えた。辻留の懐石も一段落して、亭主と客が酒のやり取りをする千鳥である。しかし、ここであろうことか尿意を催したのである。10人のうち男が二人。千鳥に入る前にも酒が出され、利休に思いを馳せているとついつい度を越していたのであろう。我慢が出来ず、「申し訳ないのですがご不浄をお借りしたい」と申し出る。手燭のみの明かりなので廊下に出るのも覚束ない。案内の女性が手探りでトイレの電気スイッチを入れてくれて、ようやくの思いで用を足すことが出来た。ここからが男の正念場、男の真価が見えるところ。卑屈にならず、さりとて中断させて興折れさせてしまった不始末を詫びる率直さをどう表現するか。諸兄、ことの成り行きやいかに。ご想像にまかせたい。

茶会を終えて、茶道はやはり男のものと思った。もちろん作法から入ることから始まるが、作法を突き抜けていく茶道の本質を究めるには、男の数寄の資質が欠かせない。70歳まで生きておれば、拙宅にて男の茶会を開くことにしたい。

それよりも驚かされたのは、哲学者・田辺元と野上弥生子の書簡集(岩波書店刊)。二人とも伴侶を失ってから愛を語る関係になったという。二人は同年で68歳からのスタート。とてもとてもレベルが高い。

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