「朝鮮と日本に生きる」

威儀を正して、一気に読むことになった。そうせざるを得ないと思わせる著者に対する敬意である。金時鐘(Kim Shi-Jong)がやむなく来し方を語ることになったというが、定年を控えた岩波新書編集部・平田からの強い勧めがあった。最後の仕事という説得が効いたのであろう、編集者冥利に尽きるとはこのこと。こうして生まれた「朝鮮と日本に生きる」(岩波新書)だが、副題に「済州島から猪飼野へ」とあるように戦前戦後の朝鮮民族の悲劇すべてがひとりの人生に織り込まれている。日韓のはざまに生きた詩人の稀有な回想記というが、そんな簡単な一行で済まされない苛烈な歴史だ。
 そんな苛烈さに救いの手を差し出しているのが詩である。済州島からの命からがらの脱出を経て、紀伊半島の岬に漂着したのはいいが見知らぬ異国にひとり取り残され、大阪「ツルハシ」だけを手がかりに何とか猪飼野に辿り着き、同胞に救われる。ほどなくして何とか糊口を得た日々に、道頓堀の古本屋で小野十三郎の「詩論」を手にする。天皇陛下の赤子となるべく強要されるというより、むしろ進んで選び取っていた「日本語」が、日本の詩人の言葉によって洗い直され、「日本語」に関わることの意味を、朝鮮人であり続けることのよすがに据えることができた、と「詩論」を手にいい切る。詩人の金時鐘がこの日本語を獲得して、在日を生きてきたのである。
 彼の生涯を分けた、というより天がひっくり返った夏の記憶は、48年の済州島4・3事件から始まる。済州島という閉鎖的な空間が過剰を増幅させ、悲劇を生んでいく。日本の敗戦による解放も束の間にして、米ソの対決は38度線を挟んでの南北の行き来は完全に閉ざされた。南朝鮮は反共の橋頭堡と化して、日帝の植民地支配に同調していていた右翼、親日派は李承晩大統領のもとで息を吹き返した。南北分断を固定化する南だけの単独選挙に反対する運動を圧殺するために彼らは利用されていく。済州島を「赤の島」と断定し、空中からガソリンを撒いてでも抹殺するとまで公言してはばからなかった。南朝鮮労働党にはいった金時鐘はレポ役として活躍していた。4・3蜂起の前段となる3.1節28周年記念大会は予想以上の盛り上がりをみせたが、それに狼狽した警察が発砲をして即死4名を含む惨事を引き起こした。それに連なるゼネストと、それを押さえ込もうとする警察右翼の無差別に近い暴虐となり、残忍な拷問も加わり、追い詰められた民主勢力は武装蜂起やむなしとなっていく。4・3事件での犠牲者は少なくとも5万人以上といわれる。米軍も島民虐殺を容認していた。
 猪飼野に辿り着いた金は当然日本共産党に入党し、サークル活動に従事していく。そして朝鮮戦争の勃発である。南北朝鮮の同族どうしが相争った骨肉相残の動乱と語られることが多いが、実質的には北朝鮮と日本の米軍基地を根城にしたアメリカ軍との戦争であった。「日本人は驚くべき速さで、彼らの四つの島をひとつの巨大な補給倉庫に変えてしまった。このことがなかったならば、朝鮮戦争は戦うことができなかった」と記されている。軍需列車運行阻止闘争である吹田事件の渦中にも当然、金はいた。金は長編詩「新潟」でそのことを語っている。
 親を捨て、故郷を捨て、日本に流れ着いて在日朝鮮人になってしまった者に、残す何があっての回想なのか、と晴れない気持ちもつぶやいている。
 思えば、老人が退職した直後、小野十三郎が創設した「大阪文学学校」で学んでみるのも選択肢であった。そうすれば講師である金時鐘と声をかけあっていたかもしれない。
 老いたる金時鐘の心に響く戦後70年談話を期待したいが、とても無理だろう。

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