果たして、紀伊國屋文化が富山に根付くのか。64年、新宿・柏木(旧地名)の下宿で学生生活を始めたが、大学へ行くよりも新宿の紀伊國屋書店へ通う日の方が多かった。何階のどこに、どんな分野の本があるのか頭に入っていたほどである。この9月にオープンした百貨店・富山大和だが、デパ地下への期待もあるが、やはり7階全フロアを借り切った紀伊國屋書店だ。しかし、胸中は複雑なのである。
義理と人情に生きる男は、その真向かいにある老舗清明堂書店を見限ることが出来ず、本を見るのは紀伊國屋、買うのは清明堂と決めている。面倒でも、e-honなるネットで注文して清明堂で受け取るシステムも活用したりして義理立てをしているのだが、どこまで頑張れるか、だ。こころは揺れている。
ところが、義理立ての隙間を縫ってその文化は現れた。「script」。紀伊國屋の広報誌で、手書きという意味だ。岩波の「図書」、新潮社の「波」などに類するが、表紙扉に「言葉は去りゆくが、書かれたものは残る」と照れくさそうに記している。こうした謙虚さが文化の必須の条件で、テークフリーとあるからもちろん無料。無料だから、清明堂にも義理が立つと、ひとり納得して、コーナーに積まれていたのを手にした。通巻2号とあるから、誕生して間もない。ところがどっこい、意外に面白いものが載っている。
上野千鶴子の「ニッポンのミソジニー」。編集後記に「現代社会の痛点を鋭く衝く連載です。本誌が起爆剤となって、ひろく議論が巻き起こることを願ってやみません」とあるから、ゆくゆくは紀伊國屋から出版されるに違いない。ベストセラーとなった「おひとりさまの老後」に続く二匹目のドジョウを狙っているのがわかって、むしろ微笑ましい。
さて、「ミソジニー」だ。「女性嫌悪」と訳すが、「女嫌い」とも。千鶴子流社会学が躍動している。しばらく“上野ワールド”で遊んでみよう。
悠仁親王の誕生から始まる。「男児誕生」すべてのメディアはそう報じた。この日ほど、日本列島をそれと名指されないミシジニーが走ったことはない。「おめでとうございます」と喜色満面で祝いのことばを述べる政治家や市民たちは、もしこれが女児だったら、いったいどんな反応をしただろうか。生誕のときから男女で値打ちが違う。これほどわかりやすいミソジニーはない。皇室という家族は、このミソジニーをあからさまな制度として組み込んだ家族である。事実大正天皇の母は明治天皇の側室だが、その母の名前は系図にすらあらわれていない。こうした皇族の女と、死をもってしか退位の自由もなく、皇籍を離脱する自由もない皇族の男を犠牲にして、日本の国は成り立っている。
第5巻の連載に飛んでみよう。性の二重基準だ。ミソジニーにはアキレス腱がある。母である。自分を産んだ女であり、自分の息子を産むかもしれない女、つまり妻であり母である存在をあからさまに侮蔑することは、自分の出自をあやうくする。ミソジニーは女性蔑視ばかりでなく、女性崇拝というもうひとつの側面ももっている。その矛盾を覆い隠すのが二重基準で、男向けの性道徳と女向けの性道徳とが違うことを指す。そして女性を2種類の集団に分割する。「聖女」と「娼婦」、「妻にして母」と「売女」、「結婚相手」と「遊び相手」の2分法である。なまみの女には、カラダもココロも、そして子宮もあればおまんこもあるが、「生殖用の女」は快楽を奪われて生殖へと疎外され、「快楽用の女」は快楽へと特化して生殖から疎外される。この快楽は、男の側のもので、男は女の快楽に頓着しない。さらにこの2種類が分断される。「聖女」は娼婦扱いしないでと蔑み、「娼婦」はカラダを張って生きているのよ、と奥様の依存と無力を憫笑する。そして男だ。愛しているからセックスできない?セックスしてしまうと愛していないことになる?また、風俗では勃つが、妻には勃たたないというEDという落差に悩んでいる。という具合だ。
この上野女史、当然なことながら、本を売るということにも大変な努力をするという。そして大手出版社に頼っていないのがいい。その上野ゼミの学生であった山秋真が著わした「ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年」(桂書房)も手にしてほしい。
はてさて、紀伊國屋文化も捨てたものではないと思うが、どうだろう。
ミソジニー