ちょっと遅きに失したかもしれない。しかし、この熱きラガーマンにして、冷静なバンカーを胸に刻んでおかねばならない。残念ながら昨年6月17日、赤城山登山中に心筋梗塞で亡くなっている。宿澤広朗、享年55歳。語り継ぐべき男である。月刊現代(1~4月号)で、加藤仁が「運を支配した男」と題して、4回にわたって連載した。
三井住友銀行大阪本店営業本部長に赴任した話から入ろう。平成16年4月、宿澤53歳。当時頭取だった西川善文(現・日本郵政社長)から特命を受けての人事であった。多額の不良債権で倒産の危機にあった松下興産の処理である。交渉相手は、親会社である松下電器の川上徹也副社長で、真剣勝負だ。この時、松下電器もITバブル崩壊で5000億円を超える税引き前損失を計上し、切羽詰まった状態であった。松下興産向けの同銀行の融資残高は1830億円。創業者・松下幸之助が設立した不動産会社で、親会社といえど手が出せない“聖域”となっていた。銀行としては、少しでも多く回収したい。松下電器としては、少しでも多く銀行に債権放棄してもらい、かつ創業家の名誉も守りたい。双方の思惑が厳しく対立する。交渉はほぼ1年続いた。結果は、銀行の損切りはその半額となった。内部からは、譲り過ぎだという批判の声が多かった。西川頭取は「量的には銀行の方が痛みは大きいかもしれない。しかし相手の名誉も傷つけず、お互い納得できる解決となった。宿澤の功績です。他の人間ではできなかった」という。
なぜ、か。宿澤の営業実績である。東京本社の市場営業第2部長時代、円貨資金を国際部門で運用する部門だが、平成14年、同部門だけで5815億円の粗利益を計上した。銀行収益の3分の1であり、メガバンク平均の3000億円を抜き去ってのトップである。イギリス時代も含めて,勘と集中力は抜群であった。相手に譲れるということは、こんな実績を持っていないとできない。何よりもラグビーで鍛えた全体を見ての判断力、敵を称えられる潔さがベースであることは明白である。川上は、宿澤のことを、クリーンハンド(きれいな手)、クールヘッド(冷静な頭脳)、ウォームハート(相手の立場を思いやる心)の人と評し、追悼文に「彼がいなかったら、今の松下の姿はなかったかもしれない」といい切った。
諸君!人事の妙なるところも学んでおこう。何事にも連戦連勝はあり得ない。敗戦をどう受け入れ、それを糧にまた、どう挑んでいくか。勝つという実績を持ちながらも、負けていたかもしれないという恐れも合わせ持つ人間。こういう人間こそリーダーに仕立てあげていかねばならない。宿澤は確実に頭取への道を歩んでいたのである。
ラグビーのことにも触れておこう。埼玉・熊谷高、早大でスクラムハーフとして活躍し、日本代表キャップを3回もやっている。特筆すべきは、日本代表監督を務めた時である。初戦でスコットランド代表と対戦した際、同国代表が練習していた秩父宮ラグビー場に隣接する商社ビルから戦術練習を偵察し、28-24で撃破したのである。何を見ていたのだろう。すかさず手を打てる力量だったのである。第2回W杯ではジンバブエを52-8で破って、日本にW杯初勝利をもたらした。日本のW杯史上、唯一の勝利として輝いている。
心から、努力で運を支配できると思っていたのだろうか。頭取になったところで聞いてみたかった。
スポーツのピークは20代から30代。その時に栄光をつかむと、そのあとが辛い。その栄光に縛られて、身動きできなるケースが多い。甲子園で、オリンピックで活躍しても、次なるステージがあることを、学校教育で身に付けさせなければならない。
といっても、宿澤は書斎不要派で、本を読むとかえって、迷いが生じたり、大局を見失ってしまうと考えていたらしい。単純な教育ではないのだ。自分の座標軸で勝負に挑むこと、加えて、いい人にめぐり合うことだろう。やはり、教えるのは難しいか。
さて、松下興産が所有していた妙高パインバレーが、昨年アパグループの手に渡った。あの大企業・松下の物件が、金沢出身の企業に移る。そんな時代なのである。
運を支配した男