どうしたわけか2月10~11日の連休に志賀高原へ出かけた。予行練習として1月13日に流葉スキー場で、繰り返しボーゲンの練習もこなしているのだから、勇躍してといっていいかもしれない。80歳の先輩スキーヤーから、志賀は最高のスキー場だから何をさておいても行ってきなさいと激励もされている。というわけで、朝6時の集合も気にならず、最年長67歳同期3人含む総勢9人というのも、集合場所ではじめて知ったのだが、誰でもウエルカムという融通無碍さは、自分でいうのも何だがいい気質だと思っている。
そんなお気楽スキーツアーであったが、10時前には志賀プリンスホテル西館に到着し、押し分けるようにチェックインを済ませ、全員ゲレンデに飛び出していた。リフトとゴンドラを乗り継ぎ、いつの間にか標高2000メートルの焼額(やけびたい)山に達している。とにかく広い、1万人近いスキーヤーだと思うが込み合うという感じではない。国体3位の実績を誇るわが同期がコーチを兼ねており、お任せ安心のまるっきり依存だから、どこがどうなのか分かるわけもなく、知ろうともしない。ただ、へエーと驚いているだけである。必死に後を追いかける1日となった。
初めてスキーをやったのが中学2年の春休みであった。友人Mの父親が勤務する日曹製鋼(現・太平洋ランダム)の保養所が赤倉スキー場にあり、そこは招かれた。その父親は中1の時にがんで亡くなっており、遺児となったMを慰め、励まそうとの配慮であるらしかった。そんな経緯を当時深く知っていたわけではないが、2泊3日の中学生4人だけの初めての旅であった。といっても、贅沢品であるスキーがおいそれとあるわけではない。竹スキーにゴム長靴で縛り付けて滑るのが精一杯の暮らしぶりで、母親に無理をいったのは間違いない。中学入学式の時に隣り合わせたのがMの母親で,新湊と大島町で近いこともあり、仕方がないとでも思ったのだろう。高岡のオダケスポーツ?でスキー一式を買い揃えてもらった。子供心に高い買い物で、いまでも何か後ろめたい気がしている。その時、スキーに乗れば勝手に滑れるのではと思い込んでいたらしく、木に片足を引っ掛けて股裂き状態でひっくり返ったのが妙に記憶に残っている。
余談だが、当時の富山は低廉で豊富な電力を生かしたフェロニッケルなどの合金鉄業界は全盛のピークで、日曹製鋼、高周波、日本電工、日本重化学、日本鋼管などがひしめいていた。
もうひとつ志賀の広大さを見て、思い出したのが87年のリゾート法。その象徴が北海道占冠(しむかっぷ)村のトマムであった。仙台に本社のある関兵精麦が狂ったようにカネをつぎ込み開発していった。全国長者番付1位になった関兵の御曹司なら、さもありなんと思っていた。90年頃であろうか、一度見てみようと出かけることになった。立山山麓をリゾート地にという構想もあり、立山国際ホテルを実質経営にあたる北陸銀行の役員ら10名ほどだったと思う。そのトマムも10年を経ずに自己破産となったのだから、実にあっけないものだった。
このプリンスホテルも98年の長野オリンピックの選手村を転用したもので、いわばオリンピックバブルのあだ花のようなもの。当時西武の総帥であった堤義明がカネに飽かしてサマランチに働きかけて誘致し、西武資本はわがもの顔で跋扈したのであろう。
はてさて、いつの間にか気付かずに“あの時症候群”に罹ってしまっていたらしい。「若さは若者にはもったいない」。年を取って余裕が生まれて初めて、若い頃の音楽とかをゆっくり楽しめるようになる。そんな現象を先取りするように苗場スキー場では松任谷由美の歌しかゲレンデに流さないし、米米CLUBのコンサートも20年ぶりで武道館で復活したという。あの日、あの時に帰りたい症候群での消費活動といえるが、ちんまりした印象で、景気回復の実需にはならないだろう。
あの時症候群・スキー