画狂老人と自称した奔放自在な筆さばき。90歳まで生きて、なおあと10年、いや5年でもいいから生きさせろ!わが画才ようやく開くかもしれん、と死の床でつぶやいた生命力。教科書で見た富嶽三十六景が最初で、両国国技館裏を歩いた時に北斎通りと記されていて、このあたりが生地であることを初めて知った程度の知識であったが、ようやくその一端を知ることができた。7月31日久しぶりに金沢に足を運び、石川県立美術館での「北斎展」を堪能した。葛飾北斎生誕250周年記念と銘打って、ホノルル美術館所蔵の作品160点を展示している。
1760年、文化文政期の江戸大衆文化が花開く時をめがけて生まれている。時代の空気が後押ししたといっていい。錦絵、浮世絵という多色刷りの木版画が、将軍から町民までに親しまれるメディアとなっていたのであろう。錦絵や浮世絵は版元が絵師に発注し、彫師、摺師が印刷部門を担当していたのである。出版社のことを版元というのはそうした起源からだ。
北斎は、生涯に3万点もの作品を残しているが、かの北斎漫画にして55歳から、富嶽三十六景は72歳で、何と小布施での肉筆画は86歳である。速筆といわれたが、いつも気合いが横溢している。これほどの創造意欲を、しかも長期に掻き立てたものは何か、だ。これからは想像であるが、版元である西村屋与八に優秀な編集者がいたのではないだろうか。富嶽はこの西村屋から出ている。お伊勢参りなどの旅行ブームに目をつけて、「北斎先生、箱根あたりにちょっと出かけませんか」と誘い、たきつけたのである。琉球八景なる浮世絵シリーズも並ぶが、北斎が琉球になぞ行けるわけがない。清国の冊封副使・周煌の報告書「琉球国志略」を参考にしたといわれ、江戸に朝貢に上る琉球使節団の人気にあやかろうとするもので、編集者の企画力であろう。
その人柄である。転居すること93回ともいい、アトリエなる部屋を汚し、散らかしながら、転々としたのだが、飽きたのであり、芭蕉の「昨日のわれに飽きたり」に通じている。号も然りで、30回変えている。号を弟子に譲ることで収入にはなったらしいが、韜晦ともいうべきか、自分をさらけだすことを極端に嫌ったとも思われる。
この北斎、海外での評価の方が高い。1865年のパリでのエピソードだが、画家のブラックモンが、陶器の包み紙であった北斎漫画をすばらしいと友人らに見せて回った。これが印象派に大きな影響を与えることになり、ゴッホが、マネが憧れるようにその手法、色遣いを取り入れていった。あの富嶽三十六景の神奈川沖波裏に触発されてドビュッシーが交響詩「海」を作曲したのである。これがきっかけとなって、日本では陶器の梱包に使われるほどに捨てられる存在であった浮世絵が、パリでは当時の日本人には考えられないほどの高値で取引される事になっていった。
ここで忘れてもらいたくないのが、高岡出身の美術商・林忠正である。1900年のパリ万博で活躍し、その後パリで浮世絵などを扱う店を開き、印象派の画家などが訪れて親交を結んでいった。活躍期間は30年にも及び、浮世絵の世界的評価を高めるとともに、印象派の画家など支援し、日本で美術館を建てようとしたが果たせなかった。
もうひとつ、北斎の春画「蛸と海女」も見逃してはならない。大小2匹の蛸が海女に絡みつき、海女があえいでいる図だが、60歳でものしている。その精力もはかり知れない。更に、諸国名橋奇覧の「飛越の堺つりはし」は、これは富山だと思わせる。
そして、こんな出会いだ。会場を出ようとした時に、中学高校同期で、小松在住の広田有志君とバッタリ出会った。それではお茶でも、となったのだが、美術館の喫茶が「ル ミュゼ ドウ」に変わっていた。七尾出身のパティシエ辻口博啓が和倉に続き、08年にオープンさせたというから、3年以上ここには来ていないことになる。
北斎展