社会福祉士を目指している学生から、相談を受けた。地元国立大学人間発達学部4年生の好青年だ。「バドミントンに全精力を傾けてきました。これまでの人脈を活かしながら、福祉の世界で活動をしたい」と歯切れがいい。人間発達学部といえば、昔の教育学部だろう、教師を目指さないのか、と知ったかぶり老人の問いに「父親は中学の教師なのですが、教師はやめておけといわれ、猪突猛進の自分には向いていないのではと断念しました」。
ところで、就職が決まらなかったら、留年するのか、と問うと、「留年はしません」ときっぱり。切羽詰った様子も見えなかったので、しばし雑談してみた。もし切羽詰まっていたら、無責任なことはいえないと、引き取ってもらっていただろう。8月は就活の最終コーナーらしい。
富山県社会福祉協議会から福祉職場説明会の案内があり、わが医療法人も緊急の求人ニーズはないが2~3年後を視野に情報発信しておこうと参加した。合計104社がブースを設置し、800人は参加していた。8月7日午後、富山県社会福祉会館サンシップのことである。
社会福祉士は、精神保健福祉士、介護福祉士と並ぶ福祉の国家資格(通称:三福祉士)のひとつで、福祉に関わる公的、民間資格を含めて全資格の中で最上位資格である。ところが、医師・弁護士のような業務独占ではなく、名称独占資格のために無資格者でも医療ソーシャルワーカーを業とすることができ、組織の必要不可欠人材から遠かった。
「この職種はいわばコーディネーターで直接には稼げないから、規模の大きさが決め手になると思う。地域包括支援センターや大病院地域連携室に限定されて、とても狭き門ということになるがどうだ」と、これまた知ったかぶりで揺さぶることになった。実際の経営でも必要とは思うがつい二の足を踏まざるを得ない。雑談は続く。
医療福祉での価格表にはいつも素朴な疑問が付きまとう。国民皆保険ゆえに、診療報酬、介護報酬はがんじがらめに事細かく規定されている。現場でもこの規定が大前提となり、利用者の希望を察して臨機応変にとはいかない。利用者の満足度という視点では程遠い。お上がお情けでやっている、利用者からすればやってもらっている感覚に陥りやすい。もちろん競争原理が一定働くうちはいいが、高齢化のスピードは早く、選択の余地がなければ必要最小限で我慢するしかない。
そこで無責任ながらと提案した。組織に属さずにフリーで挑戦してみたらどうだ。無資格でもできるのだから、郷里に帰って、無給でいいですからやらしてほしいと宣言して、少なくとも1年やってみて、それから考えたらいい。君の情熱を見て、反応しない関係者はいないと思う。留年しないで、そんな挑戦をしてみるといえば、教師を断念させた父親も1年ぐらいは居候させてくれるはず。社会福祉士の社会的な効用がそんな無償の行動で証明できれば、利用者から報酬を払うべきだということになるだろう。そこには利用者、医療福祉施設からの評価が反映される新しいシステムが生まれるきっかけになる。乱暴だがそのくらいの心意気は必要だ。市場主義万能もどうかと思うが、評価と報酬が一定リンクしているものにしていかないと折角の国民皆保険が質の向上に立ちはだかることになる。
先が見えない就活は辛いと思うが、縮み指向ではなく、思い切って動くことで活路を見出してほしい。簡単に就職先を見つけたものの、現場に入りその先を考えると不安は止むことはない。生死一如と同じように、抑圧を解放する本質的な実力を持たないと、次から次への難問に立ち向かえない。急がば回れ、である。
初めて甲子園で全国高校野球を見ながら、そんなことを思っていた。
急がば回れ!