「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと」。そういい聞かせて、この人は書斎で呻吟していた。いや、この人は書くだけではなく、直木賞をはじめとした文学賞の選者を何と30以上つとめ、当代一の読み巧者でもあった。のべにすると370回の選考会に出席していた。卓抜な批評眼と、その鋭利さは膨大な選評となって遺されている。
こんな不思議なことが起っていたのだ。富山県立図書館にふらりと出向いたのが3月26日。新しく購入された本は入口の書架台に陳列されており、いつも真っ直ぐにここに向かい、興味深い本は手にすることにしている。その日手にしたのが「井上ひさし全選評」で、800ページに及ぶ分厚さだ。白水社から出ており、定価は6,090円。これこそ借りるものと、ラッキーな思いで借り受けた。返却期限票には「4月9日」と記されている。何と、この日の夜に、肺がんを患っていた当人が亡くなったのである。こんな縁に、何とか目を通さなければ、申し訳ないと思わずにはおれなかった。はからずも最期の出版物であり、供養の思いを込めて目を通すことにした。
選評はすべて、文学を志すものへの温かいエールである。散漫な印象批評は候補作に失礼であるとして、評者の筋金をこんな風にいっている。単調で退屈な日常生活に、コトバや音やその他の手段を用いて発止と楔を打ち込み、空いた穴から覗き込むと、ふだんの暮らしのすぐ下は、さまざまな危険の地雷原で、それぞれの人生がいまにも火がつきそうな火薬樽の上で営まれている。人生のこの真実を受けて側に知らせるのも芸術の立派な役割だ。「単調で退屈な日常生活」をそれまでと違うふうに見えさせる。それが文学の役割である、と。
大佛次郎賞を受賞した山本義隆「磁力と重力の発見」の選評がいい。近代物理学がどのように近代ヨーロッパにうまれることになったのか、これを鹿爪らしく説かれていたら、私のようなXとYが現われた途端、頭と胃袋が痛み出す数式恐怖症患者はこの3巻本を投げ出して一目散に遠くへ逃げ出していただろう。だが,私は逃げ出さなかった。数式を出来るだけ抑えて、数式を言葉にして、しかも平明で正確な日本語文で書かれている。一般論を振りかざすのではなく、窓口を「地球そのものが巨大な磁石である」の一点に絞ってくれている。しかもいたるところに面白い挿話やびっくりするような史実が盛り込められている愉快な本としている。
「レディ・ジョーカー」で凄さを知り、その後も追っていた高村薫だが、日経で連載中止となった「新リア王」以来ちょっとおかしいと思っていたが、「韜晦が、文学的で小説的であるという錯覚がある」と手厳しい評をしている。
また、車谷長吉の直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」の選評だ。「たとえそこが地獄でも生きねばならぬ」と思い定める結末に、人間という存在に寄せる作者の深い愛を読んで、思わず涙がこぼれた。直木賞にこの秀作を得たことを、こころから喜ぶと手放しだ。
通底しているのは、「褒めることで、たとえわずかでも新人作家のみなさんの推進力を強めることに役立ちたいと願うからだ」という思いであり、その性格は「三文検事よりも五流弁護士のほうが性に合っている」。貧窮した青春時代、懸賞小説で荒稼ぎをし、必死の思いで世に出た井上ひさし自身の歩みが、脳裏にあるのは間違いない。
思えば、演劇の面白さを教えてくれた恩人でもある。「薮原検校」「小林一茶」「頭痛肩こり樋口一葉」「人間合格」「神谷町さくらホテル」「父と暮せば」「ムサシ」などなど思い出は尽きない。
心から冥福を祈りたい。
追悼・井上ひさし