晦日、突然ながら、ささやかな茶会の席を設けた。ぜひとも来てほしい。さる御仁を通してお願いしたところ、快く茶室・奈呉庵を借りることになった。遅きに失したとの思いもあるが、齢67歳を期して漂泊放浪を決意した。明朝元旦の旅立ちを予定している。俗事名利を離れ、しばしの清談をわがはなむけにくれてもいいだろう。心より待っている。
暮れの新聞広告が目に留まり、井伏鱒二「鞆ノ津茶会記」(講談社文芸文庫)を手にした。あわただしさを落ち着かせるには格好の書だ、と思ったのである。鞆ノ津は現在の広島県福山市。秀吉の天下統一から朝鮮出兵にいたる戦国時代の末期、備後の良港であった鞆ノ津およびその近辺の茶室などで催された茶会の記録を通して、時代の世相を鮮やかによみがえらせている。広島の原爆を描いた「黒い雨」と通底する好著だ。
小早川隆景を御屋方(おやかた)とする毛利氏に恩顧を受けた武将、僧侶たちが、それぞれの機会に集まり、茶を啜り、酒をあおり、話に興じる。井伏が自らの郷里でもある福山という地の利を得て、その想像力は時空を超えて、戦国の世を駆け巡っている。茶会の作法などまったく知らなくていい。作法は必要に応じて生まれてくるものであり、余計を生じることはない。井伏の小説作法でもある。
天正19年3月5日。桜山城跡の庵寺にての茶の湯の会。御手前は有田蔵人介。元神辺城主杉原盛重の家臣。当日の客。大崎上島出身の村上左門。大坂石山本願寺の砌、備後神石郡近田村正光寺の合力忠勤の金子200両、鉄砲100挺、米200表を石山本願寺篭城の門跡様へ献納した。銃傷を受け、今は鞆ノ津の小松寺庫裏の一室で休養する武士。安那郡中条村、金尾金右衛門尉。大坂淀川口合戦で小早川水軍に従軍して銃傷を受け、今は鞆ノ津の小松寺庫裏、村上左門の隣の部屋で静養している武士。という具合である。
そして、たまたま手にした岩波のPR誌「図書」1月号に、建築史家・藤森照信が「茶室という建築」で寄稿している。既に8棟を手がけているが、最初が赤瀬川原平で「隠れ部屋」がほしいといわれ、南伸坊も加わり、後に縄文建築団と名乗るようになる“趣味の建設作業グループ”を率いて、何とか完成にこぎつけ、薪を天井に貼りつけたので“薪軒”と名付けている。細川護熙が隠棲している湯河原に作った茶室「一夜亭」も藤森の設計だ。樹木の上に乗っかっている。煙突のように見えるのが明り取りで、大きなガラス窓が嵌められている。下手がやっても茶室になるし、名人上手がやっても茶室にしかならない。あまりの狭さ小ささが一つの形式のごとくして見る者にまず伝わり、空間の独創性の方は形式の裏に隠れてしまう。利休が到達した待庵の1坪は、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体寸法図に一致するという藤森の慧眼も素晴らしい。
さて、奈呉庵である。新湊の海の突堤に突き出し、波風に洗われるように建っている。畠春斎の風呂釜が漁師の家にある囲炉裏に打ち捨てられたように置かれ、石黒宗麿の黒釉平茶碗が無骨な手で突き出されてくる。菓子は阿蘭陀焼が無雑作に割られて側に置かれている。酒は獺祭、大ぶつ切りにした鰤、炙られた幻魚の干物が山盛りになっている。亭主は老人、客はひとりで、辛酸をなめ尽くし、ようやく佳境に入った男だ。大海の磯もとゞろによする波 われてくだけてさけて散るかも。ようやくに実朝が心境、わかってきたようだな。これだけがふたりで交わされた言葉である。
新年は明けたが、こころがいまひとつ明けない。老人の困った性癖でもある。男にはついに賀状が書けなかった。男の友情とは何か。せめてこんな茶会でもあったらいいな、と思った次第である。
「鞆ノ津茶会記」