空疎な小皇帝

これをこのまま見過ごしてはいいものか。そんな記者会見であった。この男の常套手段だが、まず見下す発言をする。切り返すように難解そうな用語を駆使して威嚇する。とにかく俺の言語感覚は最年少芥川賞作家なんだからな、へなちょこ記者に何がわかる。露骨剥き出しだ。いつまでもこんな発言態度を許していいのか。11月24日、石原慎太郎東京都知事のことである。
 現代画家として活動する都知事の4男・延啓(のぶひろ)の公費出張を取り上げ、都政の私物化ではないか、と問い質した。「どうしてですか。ほとんど今、ボランティアでやっているんですから。息子でありながら立派な芸術家。そういう芸術家はたくさんいない。余人をもって代え難かったら、どんな人間でも使う」と強く反論したのだ。自分の息子を、芸術家として余人をもって代え難い、だって。しかも40歳、何ら実績がない。親馬鹿もいい加減にしてほしい。笑止の沙汰である。これ以外にも、自らの豪遊出張も挙げれば切りがない。それでも、来年4月の都知事選に、オリンピック開催を引っさげて3選出馬を明言している。
 都知事選を前に、ぜひ都民に読んでほしい本がある。フリーの斎藤貴男が取材した「空疎な小皇帝―石原慎太郎という問題―」(岩波書店 03年刊)。斎藤は“あとがき”に述懐している。
 辛い仕事だった。本人への取材も拒否されたが、理屈も何も示されない。後難を恐れて口の重い関係者たちの証言集積作業はやりきれなかった。他者への差別感情は石原だけの専売特許ではない。おそらくは私自身を含め、多様で独立した個を傲慢にも十把一絡げにして貶めたがる意識から解放されていない。日頃の取材を通して、人間の業とはかくも卑しいものなのかと絶望しかけていたが、石原という剥き出しの存在を見せつけられたこの取材は苦しすぎた。
 傲慢にも十把一絡げにして貶めたがる。これは何を指しているのか、こんな証言がある。「彼は弱者といわれる者、すべて嫌いなのです。障害者、高齢者、女性、外国人。貧しい人、失業者、ホームレス等。でも、地方自治体において、これらの人々のために行う施策が大きな比重を占め、嫌いだからと切り捨てていいわけがないでしょう」。前回知事選に出馬した樋口恵子は、女性財団を取り潰す経過に底深い女性蔑視をみて、立候補したのだと思う。また、都庁には、ミニ慎太郎が続々と生まれている。論功行賞のみならず、意に沿うか沿わないかで、人事は苛烈を極めているのだ。みんなが怯えながら働いている。
 表の顔と裏の顔を、もてあそんでいるとしかいいようがない。自らの権力行使で右往左往する人間をもてあそんでいるのだ。
 一方でこんなエピソードもある。重度身体障害者を指差して「ああいう人ってのは人格はあるのかね。つまり意思もってないんだね」と発言した時の石原は、普通の状態ではなかったという。数年前に長男の伸晃(現自民党幹事長代理)の生まれたばかりの子供が植物状態に陥り、数ヵ月後に亡くしている。関係者は証言している。「知事はまるで夢遊病者のようでした。顔色が変わり、体は硬直していた。問題の記者会見の後、涙ぐんでいた」。あの時の孫の悲劇がよみがえったと指摘する。
 石原は、なぜ政治を選択したのか。「“嫌悪”こそが人間自身にとっての情念情操である。私は、嫌悪し憎み、取り壊すべきものを、より嫌悪し、より憎み、より実際に壊そうとするために、政治の内に在る自分を選んだだけだ」。選ばれたものが、嫌悪感を操作しながら、行うのが政治であり、選ばれない馬鹿な奴など操作の対象でしかない。といっているのだ。
 歌舞伎町の猥雑さ、隅田川公園のホームレスなど嫌悪をあげつらえば、きりがない。しかし石原流のレトリックに騙されて、どんな展望が見いだせるだろうか。8年間でもういい。選ばれないチョボチョボ人間の都政に戻していいんではないだろうか。
 「知事は週に2、3日だけ、それも数時間しか登庁してきやしないですよ。あとは休暇か、自らのオフィス。都政と真面目に取り組もうとしているはずがないでしょう」。

© 2024 ゆずりは通信